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田原城は文明12年頃、戸田宗光が渥美半島統一の拠点として築城し、以来、70年にわたって栄えたが今川義元によって攻略され落城した。その後、城主は交代し、慶長6年から戸田尊次が1万石で、寛文4年には1万2千石で三宅康勝が入城し、三宅氏の居城として栄え明治維新を迎えた。
田原城は、かつて海が城の周囲に入り込み入江を形成していたため、その状況が巴(ともえ)文に似ていることから、巴江(はこう)城とも呼ばれている。中世に築かれた城を利用したため地形、規模などの制約を受けているが、藤田曲輪(くるわ)・本丸・二ノ丸・三ノ丸・出曲輪及び付属する腰曲輪の周囲を、堀によって区画するなど随所に工夫が見られ、さらに二ノ丸櫓・桜門周辺は石垣、水堀を配するなどさまざまな工夫を凝らし、小さいながらも近世の城郭にふさわしい構成を取り入れている。また、空堀、土塁など随所に中世城郭の遺構を残す貴重な城である。 |
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