|
|
|
|
|
|
|
|
<長篠の戦い>
天正3年(1575)年5月、武田勝頼軍1万5千が、徳川家康の将奥平貞昌以下五百が守るこの長篠城を包囲して攻防約10日。この攻撃に耐えながら、鳥居強右衛門(とりいすねえもんが武田方に捕らえられ磔刑になった話しは、あまりに有名)の活躍により織田、徳川連合軍大勝の機会をつくった。
織田信長3万、家康8千の援軍は、5月18日西方4キロの設楽原に到着して陣を築く。武田軍は20日、長篠城の囲みを解いて設楽原へ進出、21日は夜明けとともに織田・徳川軍の陣地に突入し壮絶に戦うが、数千挺の銃撃にさらされ歴戦武勇の将士の多くを失った。勝頼は数騎に守られて敗走した。
織田信長は、「設楽が原の合戦」において初めて三千挺もの火縄銃を巧みに使って1日で勝敗を決めた。武田の騎馬軍団は大敗を喫し、歴史の大きな転換点になったのである。城は天正4年(1576)奥平が新城城に移った為、廃城となった。
現在は城祉の南端をJR飯田線が、北側は国道151号が通っていて、本丸とその周辺以外には遺構はない。
<長篠城>
豊川本流(寒狭川)と、宇連川の合流点の断崖上にあり、本丸、帯郭、野牛郭、巴城郭、瓢郭、弾正郭等、総面積約10ヘクタール。
○本丸の土塁と堀の一部を今に残し、戦国末期の城郭の姿をよく見せている。
○永正5年(1508)今川氏の将菅沼元成築城。
○天正3年(1575)2月徳川家康は、奥平貞昌を城主に任命し城郭整備。5月武田勝頼の猛攻に耐える。
<「長篠の合戦」当時の年齢> |
織田信長 |
42 |
羽柴秀吉 |
39 |
加藤清正 |
14 |
本多忠勝 |
28 |
佐々木信盛 |
48 |
前田利家 |
38 |
徳川家康 |
34 |
奥平貞昌 |
21 |
柴田勝家 |
46 |
佐々成政 |
37 |
徳川信康 |
17 |
奥平勝正 |
40 |
丹羽長秀 |
41 |
山内一豊 |
31 |
酒井忠次 |
51 |
武田勝ョ |
30 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
<要害の長篠城>
○要衝
長篠の地は豊川をさかのぼって約25km、長野県、静岡県北部に通じる道中にあり、このあたりから平地は山に移っていく。江戸時代の豊川舟運も長篠城を越えるところで終点になる。 戦国時代、武田軍と徳川軍がこの城を奪いあったいわゆる境目の城であった。
○要害
長篠城の南面は宇連(うれ)川、西は豊川、ともに50mの断崖である。なお本丸の西北は矢沢の険しい谷である。平地への面を水堀と土居、そして外郭は柵又は塀で囲んだ。平地へ移ってきてもできるだけ天険を利用した戦国末期の典型的な築城である。
○土居と堀
この正面に見えるのは、本丸の土居と堀で天正3年の姿を残している。右手に門と板橋があり、続いて土居と堀が伸びていたが江戸時代に崩されて今はない。
堀の土はかき上げられて土居にした。堀には水を引き入れた。土居と堀は直線に進まず直線に近い出入りがある。この形はやがて近世の城郭へ移り変る姿を見せている。 |
|
|
|
|
|
<長篠の戦い経過> 天正3年(1575)5月 (長篠城址史跡保存館パンフレットより)
6・7日 |
武田勝頼、吉田城(豊橋市)に追って小ぜりあい。 |
8日 |
武田勝頼(1万5千)が長篠城(奥平貞昌5百)を囲み攻撃開始。 |
10日 |
大手門付近で戦闘、城兵が門外へ突出。 |
11日 |
豊川対岸の武田軍、筏で野牛郭を攻撃。城兵も多数死傷するが撃退。 |
12日 |
武田軍、本丸西隅に横穴を掘り侵入、城兵は逆襲して退ける。 |
13日 |
武田軍は瓢郭を攻撃。夜、瓢の兵は本丸に引き上げ。大手門方面に武田軍が建てた望楼を城兵が銃撃で破壊。 |
14日 |
武田軍の総攻撃を城兵が死守。鳥居強右衛門が奥平貞昌の命を受けて脱出。 |
15日 |
鳥居強右衛門が岡崎に到着し家康に言上。織田信長も岡崎に到着。 |
16日 |
鳥居強右衛門は武田軍に捕われ、城中へ援軍到来を告げて磔にされる。 |
18日 |
織田・徳川軍、設楽原に到着し、陣地を構築。 |
19日 |
武田軍は軍議。勝頼は諸将の諫言を容れず、設楽原の敵陣攻撃を決定。 |
20日 |
武田本隊は城の包囲を解き設楽原へ。徳川軍酒井隊が鳶が巣方面へ。 |
21日 |
設楽原で激突。勝頼は多くの将士を失い残兵に守られて敗走。 |
<対岸、武田軍五つの砦>
宇蓮川の向こう岸の山には、武田兵庫頭信実(信玄の弟)以下各武将が陣をしいた。5月20日、本隊は設楽原へ進出したが、この部隊は長篠城の押さえとしてここに残った。
5月21日(太陽暦7月9日)夜明け、徳川軍の酒井忠次(吉田城主・豊橋市)は東三河の将士を率い、長篠城監視のために残留した武田軍の五つの砦を急襲した。
この時、設楽原方面に進出していた武田勝頼は、背後の鳶が巣砦方面の火の手と銃声に驚き本隊に戦闘開始を指令した。
五つの砦を守る武田信実以下は激しく戦ったが指揮官のほとんどが討ちとられ残兵は「長走り」の瀬を渡って本隊に合流しようとした。その前夜、酒井忠次たち将士は大雨の中を豊川渡河「舟着山」の裏をまわり五つの砦の背後の山中に潜み夜明けを待っていたのである。 |
|
|
|
|
|
|
|
<磔に散る烈士 鳥居強右衛門>
5月14日、武田軍は総攻撃をしかけた。城中の食料はあと4、5日分だけ。その夜、鳥居強右衛門は、徳川家康へ救援を依頼する使者として長篠城を抜けてた。梅雨の時、増水の寒狭川へおりて豊川をくだること4km。
15日朝、かんぼう山で脱出成功の狼煙をあげ、岡崎へ走った。(長篠〜岡崎は50km)岡崎には援軍の織田信長も到着していた。家康、そして信長の前で城の危急を訴えまわりの人々も感動した。使命を果たして休養をすすめられたが、彼はすぐ引き返した。
16日の朝、再びかんぼう山で「援軍きたる」の狼煙3発。そして長篠城の対岸まできたが厳重に警戒する武田軍に捕えられた。
武田軍から「援軍はこない城を開け、武田軍は厚くもてなす」と呼ばるよう説得されて長篠城二の丸近くに立った。(この時城は本丸と二の丸だけが残っていた)
しかし「援軍は来る。この眼で見てきた。あと2、3日、堅固に守れ」とさけんだので、対岸の篠場野の地で磔(はりつけ)にされた。
強右衛門その時36才。18日、織田、徳川3万8千の軍は設楽原に到着して陣をしいた。 |
|
|
|
|
|
<不忍の滝> (しのばずのたき)
本流の豊川(寒狭川)に落ち込む滝が少しづつ後退してできた滝で、浸食された深い谷は、長篠城西側の天然の堀の役目をしている。
このあたりは、1qほど北を通る大断層・中央構造線の活動によって岩(三波川変成隊の緑色片岩や黒色片岩)が砕かれて弱くなり深い谷が出来やすくなっている。 |
|
|
|
|
|
<馬場美濃守信房の墓>
天正3年(1575)長篠の戦いに敗れて退却する、武田勝頼の最後尾(殿=しんがり)を守り抜いて戦死した。馬場美濃守信房の首を埋めた所といわれている。 |