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佐倉城は、戦国時代中頃の天文年間(1532〜1552)に鹿島幹胤が築いたといわれる中世城郭を原型として、江戸時代初期の慶長15年(1610)に佐倉に封じられた土井利勝(1573〜1644)によって翌慶長16年(1611)から元和3年(1617)頃までの間に築城された平山城です。
北に印旛沼、西と南に鹿島川・高崎川が流れる低地に西向きに突き出した「馬の背」と呼ばれる台地の先端に位置している。佐倉城はこうした地勢を巧みに利用し、水堀、空堀、土塁を築いて守りを固め、東につながる台地上に武家屋敷と町屋、仏閣を配して、城下町の守りを固めた。
歴代佐倉城主(佐倉藩主)のうち9人が老中となっている。これは全国最多で「老中の城」と呼ばれている。なかでも、幕末期の藩主・堀田正睦(ほった
まさよし:1810〜1864))は、財政難に苦しむ佐倉藩の改革に成功するとともに、日本を開国に導いた開明的な老中として有名です。
明治維新後より昭和20年(1945)の終戦までは、陸軍歩兵第2連隊、後 歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)が置かれ、櫓や門などはそのほとんどが取り壊された。 |
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佐倉城の天守(天守閣)は、2段の土塁上に片側を掛ける造りであった。本丸側からは4階建て、反対側崖下(搦め手側)からは3階建てに見えた。その造りを石碑で再現している。
天守(天守閣)は、文化10年(1813)に盗人の行燈が倒れたことによる火災により焼失し、その後再建されなかった。天守(天守閣)の模型は、城址公園東端にある佐倉城址公園センターに展示されている。 |
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<大手門跡>
かつて、この場所には佐倉城の大手門(追手門)があった。大手門は、城の正面玄関として作られた門です。この門お三の門を結ぶ広小路の通りには、佐倉藩の重臣を含む藩士たちの武家屋敷が建ち並び、江戸時代後期には藩主が普段の生活を送る三の丸御殿が築かれた。
江戸時代中期の佐倉藩士・渡辺善右衛門によって書かれた「古今佐倉真佐子」には、大手門について「二階門はかわらぶき、しゃちほこ付く。足軽番門下なり。門のそと十五間四方ばかりの升形土手をつき廻し」と記されている。佐倉城の大手門が、シャチホコが屋根に乗った二層の瓦葺の城門であり、門の前には「升形」とよばれる四方を土手や壁で囲んだ空間があったことがわかる。升形には敵の直線的な進入を防ぐ役割があった。 |
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<土塁>
佐倉城は石垣のない土づくりの城です。城の防御のための土手を土塁と呼ぶ。土塁は城を外敵から守るために築かれたもので、土塁を巧みに配置して城の守りとした。本丸の土塁の上には土塀が存在した。 |
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<空堀>
城の防御のために溝で水のないものを空堀と呼ぶ。空堀は土塁とともに城を外敵から守るために掘られたもので、空堀を巧みに配置し城の守りとした。水があるものは水堀と呼ぶ。 |
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<椎木門跡>
北面、木造、本瓦葺、二階造り梁間三間、桁行七間。全面に馬出が設けられていた。 |
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<銅櫓跡>
木造、銅瓦葺、六間四方、二階造り。この銅櫓は、土井利勝が将軍から拝領し、江戸城吹上庭内より移築したものでもとは三層であった、太田道灌が造ったものといわれている。 |
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<二の門跡>
東面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間三間、桁行八間。本丸から大手門にいたる第二の門で「二の御門」と呼ばれていた。一の門の東方一直線上にあたり、武器庫として使用された。門内は二の丸といい、藩政を執る役所が置かれていた。 |
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<一の門跡>
東面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間四間、桁行八間。本丸からみてはじめての門で「一の門」と呼ばれていた。門内は本丸といい、天守閣、銅櫓、角櫓、御殿が置かれ、御殿の前庭には金粉をすり込んだ栗石が敷かれていたと伝えられている。 |
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<三の門跡>
北面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間三間、桁行六間。この門は御作事の諸道具を入れた倉庫として使われ、門内は三の丸といい、家老屋敷が置かれていた。 |
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<二の丸跡>(二の丸御殿(御番所、対面所))跡
佐倉城の本丸御殿は、将軍御成り時の宿所とし、年始・五節句などのほかは常用されなかった。また、佐倉に残る古記録「古今佐倉真佐子」には、権現公(徳川家康)が本丸御殿にて休憩されて以来恐れ多く、常用されなかったと記されている。
佐倉城の歴代藩主は、本丸御殿ではなく、ここ二の丸御殿に住んでいた。のべ413畳の広さであったようだ。多くの藩士が詰め、勤めをしていた御殿であり、まさに佐倉城の中枢であった。
幕末期には老朽化し、三の丸に新御殿が作られ(三の丸御殿)、そこが藩主の住まいとなった。幕末の堀田正睦(ほったまさよし)は、三の丸御殿にて亡くなっている。 |
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<堀田正睦>
日本を鎖国から開国に導いたことで知られる堀田正睦は、文化7年(1810)8月1日に生まれ、文政8年(1825)に佐倉藩主となった。
天保4年(1833)に藩政改革を宣言し、文武の奨励による藩士の意識高揚を図り、人々の生活の向上にも力を注いだ。特に、藩校の拡充や諸藩に先駆けて蘭学を導入するなど、多くの人材を育成した。
公は、天保12年(1841)に幕府の老中に就き、安政2年(1855)には老中首座となり、翌年には外国事務取扱に任じられる。攘夷が叫ばれるなか、欧米列強に対抗するには、貿易によって国を豊かにすることが必要であるとして開国を唱え、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスと「日米修好通商条約」を結ぶ交渉に全力を傾けた。
元治元年(1864)3月21日、堀田正睦は、佐倉城中の三の丸御殿で卒し、甚大寺に葬られた。
<タウンゼント・ハリス>
安政3年(1856)7月、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは、フランクリン・ピアス大統領の親書を携え下田へ到着した。来日の目的は、他国に先駆け日本と通商条約を結び、開国を実現させることだった。こうしたアメリカの動向が、開明派の藩主堀田正睦を外交の舞台に登場させることとなった。
ハリスは正睦との幾度にもわたる直接交渉で紆余曲折を重ねるが、「通商関係は、相互の友愛と信頼によってのみ実現する」との強い考えが、正睦を共感させたようである。
安政5年(1858)6月に至り、イギリス、フランスなどからも開国要求の激しさが増す中、ハリスは正睦に対し、「今こそ条約調印の機」と訴えた。こうした状況を受け、それまで正睦の指揮下で交渉にあたってきた井上清直、岩瀬忠震両名がアメリカ軍艦ポーハタン号に赴き、日米修好通商条約に調印した。
今からちょうど150年前の6月19日のこと。幾多の困難を乗越え、大役を果たしたハリスは、文久2年(1862)4月、5年9か月間の日本滞在に終止符を打ち、南北戦争の只中にある母国に帰った。 |