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正保4年(1647)に記された『肥前国佐賀城覚書』によれば、かつてこの地に五層の天守閣が築かれていたという。本丸からは、この天守台には上がれず、二の丸の西から本丸石塁北の犬走りを通って入るようになっている。
初代藩主鍋島勝茂の時代、慶長14年(1609)に完成した佐賀城の天守閣は五層の破風のない素朴ながらも実戦向きの建物であった。佐賀城は、八反井樋と今宿江をせき止めれば天守と本丸の一部を除き、外は城下はじめ、全体が湖水化する設計になっており、敵の侵入を阻む仕組みになっていたといわれている。このため佐賀城を一名「沈み城」というのはこのことに由来する。だが、一説には他の城は城下から離れれば離れるほど、その天守が高々とそびえて見えるのに対して、佐賀城は城下を少し遠ざかると、楠や松の木に隠れて見えなくなるためだともいわれている。
しかし、佐賀城は享保11年(1726)、4代藩主吉茂のとき、本丸・二の丸・三の丸・天守閣が焼失した。その後復興されたが、天守閣は再建されないまま今にいたるが、天守台や石垣は残されている。天守台は、高さ約9m、南北31m×東西27mとかなり巨大な天守台であることから、天守もかなりの規模のものだったことが想像できる。 |
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<西側土塁石垣と門>
ここは外面が石垣、内側が土塁です。南北を石垣で挟まれたこの場所の石垣間は、現在6mだが、当時は小さな門があったとされ約2mの狭い通路であった。しかし、発掘調査を行った際に、門の跡は見つからなかった。道路上に引かれている線は当時の石垣の場所を示している。 |
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佐賀城本丸歴史館は佐賀城の本丸御殿の一部を再現してつくられた施設。 |
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佐賀城本丸歴史館の駐車場付近に建つ佐賀藩・十代藩主鍋島直正像。幕末期の佐賀藩を先導的に導いた名君といえる。江藤新平や大隈重信らとともに「佐賀の七賢人」の一人である。 |
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佐賀藩 精錬方絵図 |
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佐賀藩 三重津海軍所絵図 |
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築地反射炉 絵図(左) 直正公嗣子 純一郎君 種痘之図(右) |