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15世紀中頃(室町時代)、西郷弾正左衛門頼嗣(稠頼)が現在の岡崎城の位置にはじめて城を築き、のちに家康の祖父である松平清康が入城し本格的な岡崎城を構えた。天文11年(1542)12月16日、徳川家康はここ岡崎城内で誕生した。江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重系統/前本多)、水野氏、松平氏(松井)、本多氏(忠勝系統/後本多)と、歴代譜代大名が城主となった。石高は5万石と少なかったが、大名は岡崎城主となることを誇りとしたと伝えられる。
現在の天守閣は昭和34年(1959)の復元され、3層5階の鉄筋コンクリート構造となっている。2階から4階は江戸時代の岡崎を紹介する展示室で、5階は展望室となっており、三河平野を一望することができる。
<岡崎城の歴史> |
1452〜1455 |
西郷弾正左衛門頼嗣(稠頼)、竜頭山に築城。 |
1431〜32 |
安城松平清康、竜頭山の岡崎城へ移る。 |
1542・12・26 |
徳川家康、岡崎城内で誕生する。 |
1590〜1600 |
岡崎城主田中吉政、城と城下町を大改造、天守閣・惣構えの堀を築く。 |
1617(元和3年) |
櫓をもつ複合天守閣に再建。 |
1871(明治4年) |
廃藩置県、額田県成立し旧城内に県庁設置。城址は県有地。 |
1873〜74(明治6〜7年) |
城郭取り壊し、天守閣解体、礎石のみ残る。武家屋敷払い下げ。 |
1875(明治8年) |
旧本丸・二の丸・城址公園となる。 |
1959(昭和34年) |
岡崎城天守復元。 |
1962(昭和37年) |
岡崎城跡約96,700u岡崎史跡に指定。 |
1982(昭和57年) |
旧二の丸跡に、三河武士のやかた家康館開館。 |
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<二の丸御殿の井戸>
この井戸は江戸時代の石組井戸で、平成19年度(2007)の発掘調査で発見された。岡崎城二の丸御殿(現在の家康館からこの井戸付近までの位置に建っていた)に伴うものと推定される。
二の丸御殿の絵図には、建物の北東側に二基の井戸が表示されており、そのどちらかと考えられる。 |
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<しかみ像>
世に云うしかみ像『徳川家康三方ヶ原戦役画像』は、浜松の三方ヶ原で武田の大軍に無理な戦いを挑み、負け戦となり多くの家臣を失った家康が、自我の念を忘れることのないように描かせたものと伝えられ、顔をしかめて苦渋の表情をあらわした珍しい肖像画です。このしかみ像は、かの画像を基にして製作された石像です。
元亀3年(1572年)10月3日、2万7千の大軍を率いて甲府を出発した壮年武田信玄は、遠江に侵入すると徳川方の城を次々に落とし、12月には家康の居城である浜松城に迫りながら攻撃を行わず三方ヶ原に青年家康を誘い出し大敗させ、家康最大の危機としました。命からがら城に逃げ帰った家康は、将としての冷静さを失った自分を大いに反省したのであります。
自戒の像である「しかみ像」は、やがて戦乱の世を統一し、世界に冠たる平和国家を創り上げる礎になったと云われます。
平成19年11月10日 寄贈者 徳川宗家18代当主 徳川恒孝氏 製作者 小林道明氏
<家康公遺言>
わが命旦夕に迫るといへども将軍斯くおはしませば天下のこと心安し
されども将軍の政道その理にかなはず 億兆の民艱難することもあらんには たれにても其の任に変らるべし
天下は一人の天下に非ず天下は天下の天下なり たとへ他人天下の政勢をとりたりとも四海安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより 家康が本意にしていささかも うらみに思ふことなし 元和2年4月17日 家康公薨七十五才於駿府城
<東照公遺訓碑>
人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず、不自由を常とおもえば不足なしこころに望おこらば困窮したる時を思いだすべし、堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもえ勝事ばかり知りてまくる事をしらざれば害其身にいたる、おのれを責て人をせむるな、及ばざるは過ぎたるよりまされり。
有名な言葉ですが、後の世の人の作ともいわれている。 |