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<天守閣>
天守閣は、城の象徴として本丸に構えられたものである。
寛永11年(1634)に、三代将軍徳川家光が小田原城の天守閣に登り、武具を見たり展望を楽しんだという記録が残っている。
元禄16年(1703)の大地震のときには、小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失してしまうが、天守閣は宝永3年(1706)に再建され、明治3年(1870)の廃城まで小田原のシンボルとしてそびえていた。
現在の天守閣は、昭和35年(1960)5月に、市制20周年の記念事業として復興したもので、宝永時代の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に、鉄筋コンクリートで外観復元したもの。内部は、古文書、絵図、武具、刀剣などの歴史資料の展示室となっている。
<常磐木門>
本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも、最も大きく堅固に造られていた。古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが分かる。
元禄16年(1703)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706)に、多門櫓と渡り櫓から構成される桝形門形式で再建されたものが、明治3年(1870)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれている。
現在の常盤木門は、市制30周年事業として、明治時代初期に撮影された写真などを参考に再建したもので、昭和46年(1971)3月に完成した。
常盤木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたといわれている。(3段目画像) |
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<本丸>
元禄時代ごろの御殿の絵図によると、本丸は、周囲が高い石垣と塀や櫓と呼ばれる建物で囲まれており、天守閣のほか、中心には将軍家宿泊専用の立派な本丸御殿があった。御殿は元禄16年(1703)の大地震で壊れた後、再建されなかったが、現在の象舎と天守閣の間にあり、畳敷だけでも670畳ほどあったことが分かる。
また本丸の出入口には「常盤木門」(ときわきもん)と「鉄門」(くろがねもん)と呼ばれる2つの門があった。常盤木門は東にあり、大手に当たる枡形門で、現在復原されている。また鉄門は北にあり、御用米曲輪を通り、城外に出ることができた。
<二の丸御殿跡>
江戸時代の小田原城には、将軍の旅宿専門の「本丸御殿」と、藩主の居館や行政を行う政庁としての役割をもった「二の丸御殿」の二つの御殿があった。
「二の丸御殿」は、三代将軍家光が上洛のおり小田原城に止宿した寛永年間(1624〜44)の頃が最も壮麗で、能舞台や唐門も備えた立派なものだった。しかし、元禄16年(1703)に起きた大地震により小田原城は甚大な被害を受け、「二の丸御殿」も倒壊し炎上してしまった。その後再建され、徐々に増築されたものの、以前の姿には到底及ばないものだった。
平成9年(1997)、10年(1998)には、この「二の丸御殿跡」で試掘調査が行われ、元禄の大地震で真赤に焼けた土と前期の御殿の礎石や屋根に葺かれたいた瓦などが出土した。また、後期の御殿は前期の焼け跡を一旦埋め立てて新たに建てられたこともわかった。
<二の丸隅櫓>
江戸時代の小田原城には、様々な大きさの櫓が、城のあちらこちらに築かれていた。この隅櫓は、城主の居館(御殿)があった二の丸主部の南東の隅に位置し、堀をはさんだ向こう側、三の丸にあった大手門の真後ろを見渡せる。櫓の内部には武器が格納され、有事の際にはここから城下を展望し、敵が攻めてきた場合には矢や鉄砲を放つようになっていた。
明治3年(1870)の小田原城廃城により、天守閣を始めとする城の建物は、ほとんどが破却され、二の丸隅櫓だけが唯一残存していた。しかし、大正12年(1923)の関東大震災により、堀の中に石垣ごと崩落してしまった。
現在の建物は、昭和9年(1934)6月に復興されたもので、江戸時代のものと比較して一回り小さいという。 |
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天守閣(高さ約60mの最上階)からは相模湾が一望でき、良く晴れた日には房総半島まで見ることができる。東西南北の眺望である。
<小田原城のあらまし>
小田原城は、今から500年以上前の15世紀後半、西相模一帯を支配していた大森氏の時代に、天下の険の箱根を控えた小田原の地を根拠地としたことから、その歴史が始まったと言われている。この頃の小田原城の位置は正確には分かっていないが、県立小田原高等学校の東の高台付近と想定され、規模の小さな山城であったと考えられている。
明応4年(1495)、伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)が大森氏を攻め、小田原城を手に入れてから、関東の覇者、北条氏の城となり、天正18年(1590)、豊臣秀吉と対峙した小田原合戦の時点では、周囲の山の中腹や海岸線などに、総延長9qに及ぶ土塁や空堀を巡らし、町屋や農地までも城下に取り込んだ壮大な城構(総構)が築かれ、日本最大の中世城郭に発展した。この時代に造られた土塁や空堀は現在でも、鉄道を挟んだ西側の丘陵地や、市内の各所に残されており、天守閣裏手の遊園地付近でも観察することができる。
江戸時代の小田原城は、江戸城の西の守りとして重視され、徳川氏の重臣である大久保氏や稲葉氏が城主となり、北条氏時代の巨城を「お留山」等によりそのまま管理しながら、現在の本丸や二の丸、その周辺の三の丸の一帯が近世城郭に改造され、高い石垣や白亜の城壁を持つ姿に生まれ変わった。この工事は、主に、寛永9年(1632)から貞享2年(1685)まで城主であった稲葉氏の時代に、幕府からの援助を受けて行われた。それ以後、江戸時代初期に城主であった大久保氏が再び城主になったが、この時期に整えられた小田原城が、震災による建替えや修復を繰り返しながら、幕末まで引き継がれた。 |
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<小田原城跡のイヌマキ>
イヌマキは関東南部以西の海岸地帯の森林に多く自生する暖温帯林を代表する常緑の高木で、小田原市内の神社や寺院の境内にも多く見られる。
この木は、幹回り4.5mに及び、市内で最大のイヌマキです。主幹は左巻きにねじれ、地上5mのところで四支幹に分岐している。以前は、四方へ密に枝を広げて傘状の見事な姿をしていたが、台風のために北側の大枝が折れて、支幹の一部があらわになり、現在のような姿になってしまった。
しかし、堂々と猛々しく立つ姿は壮観で、小田原城跡内の数ある大木、古木の中でも、本丸の巨松と並ぶ双璧です。
目通り幹囲…4.5m、株元周囲…約6m、樹高…約20m、枝張り状況…東西25m、南北13m
<豊臣秀吉の小田原攻め>
天正18年(1590)4月、関東最大の勢力を誇る戦国大名小田原北条氏の本拠地小田原城は、全国統一を推し進める関白豊臣秀吉率いる諸大名の大軍に包囲される。
北条氏の当主氏直は、臣従を迫る豊臣秀吉と交渉を続ける一方、小田原城をはじめ諸城を強化し、総動員態勢を整える。特に、小田原城に城下の街ごと囲む全長9qに及ぶ長大な大外郭を構築し、決戦に備えていた。
結果的に交渉は決裂。氏直は、国境線を固めるとともに小田原城に主力を投入、さらに領内100ヵ所に及ぶ支城の防備を固めて防衛体制を整えた。
豊臣方の軍勢は水陸あわせて約22万。徳川家康らを先鋒とする秀吉の本隊は東海道、前田利家・上杉景勝率いる北国勢が上野国(群馬県)から北条氏の領国に侵攻。長宗我部元親・九鬼嘉隆らの率いる水軍が兵員・物資を搬送し、海上封鎖に従事した。
大外郭の出現により中世最大の規模を誇った小田原城には、6万とも伝える人々が籠もり、豊臣秀吉・徳川家康をはじめ、織田信雄・蒲生氏郷・羽柴(豊臣)秀次・宇喜多秀家・池田輝政・堀秀政など、名だたる戦国の英雄を迎え撃ち、3ヶ月余りに及んだ攻防戦を展開する。
小田原城の攻略に当たり、十分な兵糧・資金を用意して長期戦の構えで臨む秀吉は、壮大な石垣山城を築き、本営を湯本早雲寺(箱根町)から移動。淀殿や参陣諸将の女房衆を召し寄せ、また千利休らの茶人や芸能者を呼ぶなど長陣の労を慰めた。
北条方は、各地の諸城に籠もって防戦し、機会を見て反撃に転じる作戦であったが、主力の籠もる小田原城を封鎖されたまま各地の支城を撃破され、次第に孤立していった。同年7月に至り北条氏直は城を出て降伏を申し入れ、自らの命と引き替えに、籠城した一族・家臣や領民らの助命を願い出る。しかし、秀吉はこれを認めず、氏直の父氏政とその弟氏照らに切腹、氏直に高野山追放を命じ、ここに戦国大名小田原北条氏は滅亡した。
この合戦の過程で、関東ばかりでなく伊達政宗ら東北の諸将も秀吉に臣従する。この結果、天下統一の事業が達成され、北条氏の滅亡とともに戦国時代も終わりを告げた。(小田原城案内板より)
これより下は、泰山木さんからの投稿画像です。 |
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北条氏の居城として知られている小田原城だが、もとは相模国の小早川氏の館であった。豊臣秀吉が小田原征伐(小田原合戦)でもって天下統一を成し遂げた。その後、小田原城は、大久保氏の居城となり明治まで続いた。(途中、藩主が変わった時期もある)現在の小田原城址の主郭部分は、大久保氏時代に造営されたものである。
現在、小田原城址は小田原城址公園として公園化されている。天守閣や常磐木門などの復元が行われ、今後も復元作業が行われる。
桜の季節、いよいよ新緑の躍動的な季節が訪れる。 |