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名古屋城は、徳川家康が、慶長14年(1609)江戸幕府の東海道の要所として、また、大坂方への備えとして、清須から名古屋へ城を移すことを決意し、加藤清正・福島正則・前田利光などの北国や西国の諸大名20名に普請を命じ、慶長17年(1612)にほぼ完成した代表的な平城です。その後、明治維新をむかえるまで名古屋城は、徳川御三家の筆頭尾張徳川家62万石の居城として栄えた。
当初、本丸御殿は尾張藩主義直も居館とともに藩の政庁として使われていたが、その後、将軍が上洛する際の宿館となり、寛永11年(1634)には最も豪華な上洛殿が増築され、3代将軍家光が宿泊した。
明治維新の後、名古屋城には名古屋鎭台が置かれ陸軍省の管理となり、明治26年(1893)には、本丸や西の丸などが宮内省に移管され名古屋離宮となった。昭和5年(1930)名古屋市へ下賜の後は、天守閣や本丸御殿は国宝として保存されてきた。
昭和20年(1945)の空襲で大部分が焼失したが、3つの隅櫓(重要文化財)と表二之門(重要文化財)・城郭は、ほぼ原型を残している。その後、天守閣
(昭和34年・1959)と正門が再建された。再建された天守閣は、1〜5階が旧本丸御殿の障壁画などが観賞できる展示室、最上階は展望室になっている。
本丸御殿は礎石のみを残して今日に至っている。(日本城郭協会) |
<東南隅櫓> |
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<東南隅櫓(すみやぐら)>(重要文化財)
辰巳櫓ともいわれ、屋根二層、内部三階、屋根入母屋造り、本瓦葺、白塗籠(しろぬりごめ)造りである。東・南二方に張り出した「落狭間」(おとしざま・石落とし)がもうけられている。この櫓は築城当時のものであり、鬼瓦には葵の紋が見られる。 |
<西南隅櫓> |
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<西南隅櫓>(重要文化財)
古くは未申(ひつじさる)櫓ともいわれ、屋根二層、内部三階の櫓である。外部に面した西・南両面には軍事用の「落狭間」を張り出して屋根は千鳥破風にし擬装している。
この櫓は、濃尾大地震で石垣と共に崩壊したが、対象12年(1923)宮内省によって修理復旧され、鬼瓦などに菊花紋が見られる。 |
<剣堀> |
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<剣堀>
大天守閣と小天守閣を連絡する橋台は、石垣を築き左右両側に土塀を設けて通路の防備とし、さらに外部の面する西側には軒桁(のきけた)に30p余の槍の穂先を並べて忍び返しとして外的に備えた。剣堀は、大天守閣に東接する「不明門」にも見られる。 |
<鵜の首> |
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<鵜の首>
西の丸・御深井丸(おふけまる)など郭の接するところに防衛上から入り込んだ堀を設けている。これを「鵜の首」という。本丸を巡って「鵜の首」と呼ばれる箇所は5ヵ所残っている。 |
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<名古屋城本丸御殿>
この建物は、尾張藩主の住まいとして慶長20年(1815)に建てられた書院造を復元したものです。
御殿は木曽地方などで育った天然の桧をたくさん使ってつくられている。桧の香りが漂う建物に入ると、虎の障壁画がある。これは復元模写した作品で、描かれた当時の色彩を復元している。襖の引手金具や長押の釘隠など、部屋の威厳を高めている。
表書院は名古屋城本丸御殿で一番広く、格式を重視した建物です。玄関では竿縁天井(さおぶちてんじょう)だったのが、ここからは格天井(ごうてんじょう)に変わる。部屋にも差をつけて、藩主の座る部屋「上段之間」は床を一段高くし、天井も高くし、部屋の奥には床や違棚、付書院、帳台構という座敷飾がある。 |