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長浜は古く今浜と呼ばれ、バサラ大名として知られる京極道誉が今浜城を建てた。その後、天正元年、織田信長が浅井長政を滅ぼし、浅井の旧領地を羽柴秀吉に与えた。秀吉は、小谷城を廃して、今浜城を改修して(改修したと言われている)新城(長浜城)を築き地名を今浜から長浜に改めた。これが長浜城の始まりである。その後、江戸時代前期に廃城になっている。遺構は彦根城や大通寺に移築された。
昭和58年(1983)、長浜城の跡に安土桃山時代の城郭を模して3層の模擬天守、外観がお城の博物館(長浜市長浜城歴史博物館)が建てられた。城内は資料館となっている。城の一部に築城当時の石垣が残っている。
また、琵琶湖岸に太閤井と呼ばれる井戸がある。石碑が建てられているが、琵琶湖の水位が高いときには石碑だけが湖面に顔をのぞかせている。
<長浜城と「おかね」さん>
長浜城の天守閣跡といわれるこの地に、築城に際して人柱となった「おかね」さんの話が伝えられている。
天正2年(1574)頃、長浜城が築かれることになった。強固な城を築くための人柱として、長浜一の美女と評判の「おかね」さんが選ばれた。若くして聡明であった彼女は、けなげにも湖北地域一円の繁栄を願い、自らの命を捧げたというものです。
「おかね」さんが眠るのは、この辺りといわれ、かつてこの北側にあった堀は、その縁もあり「おかね堀」と呼ばれていた。(最下段右写真) |
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