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苗木城は、別名高森城、・赤壁城・霞ケ城とも呼ばれ、江戸時代は苗木遠山家12代の居城として明治維新まで使われた山城です。巨岩の上に建てられた天守や懸造(かけづくり)による建築など全国的にも珍しいものだった。
懸造とは、柱と貫で崖の上に建物を固定し、床下を支える建築方法で、京都の清水寺でも用いられている。国指定史跡。続日本100名城。
築城 |
1526年 |
廃城 |
1871年 |
主な城主 |
遠山友政 |
標高 |
432m |
形式 |
山城 |
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苗木城は、中津川市内を東西に貫流する木曽川の右岸に一段と高くそびえる城山に築かれていた。
木曽川から山頂の天守跡までの標高差は約170mある。岩山の上で利用できる土地の確保が困難であったため、建物の構築方法に懸造が使われているなど、自然の地形を有効に生かして築かれた山城である。
大永年間(16世紀前期)に苗木の北方にある植苗木(うわなぎ)を拠点としていた遠山氏がこの地に移り住んだ。
その後、戦国の動乱の中で遠山氏は苗木城を追われるが、関ヶ原の戦いに先立ち遠山友政が城を奪回し、以後江戸時代を通じて城主として治めた。
<遠山友政>
遠山友政は遠山友忠の子として飯羽間城に生まれた。祖父遠山友勝が織田信長の命により苗木城に入り、その後友忠・友政父子が苗木城を継いだ。天正11年(1583)森長可に苗木城を攻められ、父友忠とともに苗木城を明け渡すこととなった。
その後、浜松の徳川家康につき、館林の榊原康政の旗下にいた。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの直前に家康の命を受け苗木城を奪還し、苗木藩10,521石を拝領し大名に任ぜられた。友政は苗木藩初代藩主となり、その後苗木遠山氏は明治に至るまで国替えもなく、第12代遠山友禄まで藩主として苗木藩を治めた。 |
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<風吹門跡>
二階が飼葉蔵として使われていた風吹門は大手門とも呼ばれ、城下から三の丸への出入口に位置する。門の右側(南側)に門番所が併置され、昼夜を問わず人の通行を監視していた。城主の在城時は開門し、江戸在府中は締め切られ、右側の潜り戸が利用された。 |
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<大矢倉跡>
城内最大の櫓建築で、外観からは二階に見えるが、実際は三階構造になっていた。鳩を飼っていたと言われ、俗に「御鳩部屋(おはとべや)」と呼ばれていた。 |
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<駈門跡>
三の丸跡の東側にある門。 |
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<二の丸跡>
領主遠山家の住居や家臣が集まる部屋があった跡。 |
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<的場跡>
苗木城には、弓の稽古場としての的場が本丸と二の丸に設けられていた。二の丸にあるこの的場は、領主居間の南側、一段と低い所にあった。的場の敷地は長さ30m、幅15m程で、剣、槍、鉄砲の稽古もも行われていた。残っている的の土塁は、長さ3m高さ1m程で、右側は石垣、左側と奥は土塀で囲われていた。 |
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<大門跡>
苗木城の中で一番大きな大門は、二階建てで、三の丸と二の丸を仕切っていた。門の幅は二間半、二階部分は物置に利用されていた。 領主の江戸参勤出立時などの大きな行事以外は開けず、普段は、左側(東側)にある潜り戸を通行していた。 |
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<綿蔵門跡>
本丸へ上がる路を遮る形で建っていた綿蔵門は、夕方七つ時(午後4時)以降は扉が閉められ、本丸に進めなかった。門の名の由来は、年貢として納められた真綿が、門の二階に保管されていたことからきている。 |
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<御朱印蔵跡>
「切石」できっちりと積まれた石垣の上に建てられていた御朱印蔵には、将軍家から代々与えられた領地目録や朱印状など重要な文書や刀剣類が納めらていた。これらの収蔵品の虫干しは、毎年一度必ず行われ、また蔵への出入りには、右側の梯子(はしご)が使用された |
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<坂下門跡>
この門は二脚となっており、門の礎石と手前の石段が良く残されている。坂道の下にあったので、坂下門と呼ばれていたが、またの名を久世(くぜ)門ともいう。これは三代領主友貞の奥方の実家で、苗木城改修の際に力添えをした徳川家譜代の名家久世家の名からきていると伝えられている。 |
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<菱櫓門跡>
坂下門跡から北に進んだ先にある門跡。 |
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<本丸口門跡>
千石井戸の西側にある門で、本丸と二の丸の境となる門で、総欅で建てられていたことから、欅門とも呼ばれていた。 |
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<武器蔵、具足蔵跡>
・武器蔵
長さ8間(約16m)、奥行3間(約6m)の土蔵。建物の長さから別名八間蔵といわれ、大名遠山家が所持していた鉄砲や弓等の武器類が納められていた。現在は一部建物土台が崩壊しているが、礎石や縁石が往時のまま残されている。
・具足蔵
本丸口門から見て右側の崖上にあり、2間3尺、3間の建物である。ここには領主の具足や旗が保管され、別名旗蔵(はたぐら)とも呼ばれていた。 |
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<玄関口跡>
玄関口という名のとおり、この門を抜けていくルートが、天守への正式な道だった。この門の先には土廊下の建物が続いており、奥は小屋とつながっていた。通常は鍵が掛けられていて、ここから中に入ることは禁じられており、鍵は目付役が管理していた。 |
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<本丸玄関>
本丸玄関は、天守台より一段低い位置にあった。そのため玄関に入ると。苗木城の特徴の一つである掛け造りの千畳敷を通り、回り込むようにして南東側から天守台に入った。
玄関には玉石が敷かれていたことが絵図に描かれており、整備前の調査でも、多くの玉石が確認された。この石敷はその玉石を利用して復元したものです。
玄関の右側にある巨岩には柱穴があり、この巨岩にはみ出す形で建物が建てられていた。
<苗木城天守建物>
苗木城の天守は二つの巨岩のまたがる形で作られ、三層となっていた。
1階部分の名称は「天守縁下」、板録を入れて4m×5m(2間×2間半)の広さで、岩の南西側隅にあった。
2階は「玉蔵」と呼ばれ、岩が敷地を占め、建物の床面自体の大きさは6m×6m(3間四方)だった。ここには1階と3階に通じる階段が設けられていた。
3階の「天守」は巨岩の上にあり、9m×11m(4間半×5間半)の大きさだった。
この巨岩の上の柱と梁組みは、苗木城天守3階部分の床面を復元(想定)したもので、岩の柱穴は既存のものを利用した。苗木城天守3階部分を一部復元し、展望台として利用できる。(下記画像) |
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<苗木城本丸跡>
木曽川を天然の堀とした苗木城の本丸は、巨岩重なる岩山である高森山の頂上部(432m)一帯にあり、眼下の木曽川から約170mの比高差がある。ここからの眺望はすばらしく、正面にはかつての中山道中津川宿場町の街並みとその背後に恵那山(1,2191m)が一際高くそびえている。右側は根ノ上高原がある保古山(969m)に連なり、左側には木曽山系の山並みと東山道の神坂峠を望むことができる。 |
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