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湯築城は、二重の堀と土塁を巡らせ、その中に居住空間を持つ先駆的な平山城の形態をなす。中世伊予国(現在の愛媛県)の守護河野氏の居城として、約250年間存続した。南北朝時代の初め頃(14世紀前半)、河野通盛(みちもり)によって築かれたと言われている。通盛の祖先には、12世紀末の源平合戦の際、水軍を率いて活躍した通信(みちのぶ)、13世紀後半の蒙古襲来の際活躍した通有(みちあり)がいる。
通盛は、それまでの河野氏の拠点であった風早郡河野郷(現在の松山市・合併前は北条市)からこの道後の地に移った。築城に関する文献は残っていないが、河野氏の居館が寺(善応寺)になった時期や、忽那家文書の記述などから遅くとも建武の時代(1334〜1338)には築城されたと推定されている。
河野氏は、その後讃岐から攻め入った細川氏との戦いに敗れ、湯築城は一時占領されたが、また奪い返した。しかし、近隣諸国から幾度となく攻撃を受けたり、お家騒動(惣領職の継承をめぐる分裂)や内紛(家臣の反乱)を繰り返し、その地位は決して安泰ではなかった。天正13年(1585)、全国統一を目指す羽柴(豊臣)秀吉の命を受けた小早川隆景に湯築城は包囲され、河野通有は降伏し、やがて湯築城は廃城となった。
現在、湯築城跡は道後公園として整備され、丘陵部の頂上(展望台)からは松山市内が見渡せる。 |
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<ある日の武家屋敷>
16世紀中頃、家臣が住んでいた武家屋敷のある日の様子を再現した。
主室では、武士や僧侶が集まり「連歌」を楽しみながら、教養を養うとともに仲間意識を強めている。連歌は、複数の人が一座に会して、和歌の上句にあたる5・7・5と下句の7・7を交互に読み続け、百韻(100句)を完成させる形式が一般的です。
ここでは、中央の上座に宗匠を指導者として招き、式目と呼ばれる約束事を教わりながら連歌の稽古をしており、手前右手の武士が採用された句を書き留める執筆の役目を果たしている。挙句(最後の一句)が近くなり、みんな創作に苦心しているが、板間の台所では、使用人が連歌を終えた客人に茶を点てる準備をしている。 |
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<岩崎神社>
この神社は、蛇を祭っていると言ういわれがある。昔、お爺さんがたけのこを掘ろうとしていると、おかしな事に急に眠くなり、そばの木の根元に座ってたばこを一服しながら休み、吸い殻をポンと、木の根っこに落とした。すると木の根っこがぐらっと揺れて遠くの方から「アッチッチ」という声が聞こえたような気がした。よく見ると、木の根っこと思っていたのは実は大蛇だったのです。あまりの怖さに気を失い大蛇に食べられた。この蛇は、大変大きく長さはこの神社より義安寺に届くぐらいだったそうです。
その後大蛇は、暴れ回り何人もの村人を飲み込んだり、村中を荒らし回ったので困り果てた村人はどうしたら良いか相談し、神社を作り蛇を祭ることにした。それからは暴れる事もなく村も平和になったそうです。
今でもこの蛇を「ミイさんミイさん」と呼んで大事にし、この神社をお詣りする女性もいるようです。 |