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松山城は、慶長7年(1602)正月15日、賤ヶ岳七本槍で有名な加藤嘉明によって起工された。石材などは、正木(松前)城や湯築城などから運ばれたものが多かったようです。嘉明は、足立重信を普請奉行として工事に着手、おたたさん(魚の行商をする女性)が砂を運び、近郷の農民が手繰り渡しで瓦を運ぶなど、多くの人々が工事に従事した。
翌慶長8年10月に、嘉明は正木(松前)から新城下に移り、城下を松山と命名し、城の名前を松山城とした。城全体の完成は、加藤嘉明が会津40万石に移封となった、嘉永4年(1627)頃といわれている。約26年の歳月をかけて築城された。 |
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<別称「金亀城」の名前の由来>
城は標高132mの山(勝山)の上にあり、勝山城または金亀城と呼ばれている。松山城築城の際、山麓の内堀(愛媛県庁西側)の処が、深い渕になっていて、そこに「金色の亀」が棲んでいたといわれている。その伝承にちなんで、別名「金亀城」と呼ばれるようになった。 |
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松山城の創建者は、加藤嘉明である。嘉明は、永禄6年(1563)に三河国(愛知県)永良郷賀気村に生まれた。父広明は徳川氏譜代の武士であったが、6歳の時に美濃国(岐阜県)で逝去した。
孤児となった嘉明は諸国を流浪し、やがて羽柴秀吉に見出されてその家臣となった。20歳の時賤ヶ岳の合戦に加わり、七本槍の一人として武勲をたてたことは、余りにも有名である。
その後、従五位下、左馬助に補せられ、文禄の役の戦功によって伊予国正木(伊予郡松前町)6万石の城主に封ぜられた。その後、慶長の役(1597)においても活躍し10万石に加増され、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに徳川家康に従軍し、その戦功が認められて20万石となった。そこで嘉明は慶長7年(1602)に道後平野の中枢部にある勝山に城郭を、その周辺部に城下町を築くため、足立重信を普請奉行に命じて工事に着手した。
翌8年(1603)10月に嘉明は、家臣および正木の住民と共に居を新城下に移すこととなり、初めて松山という名称が公にされ、その後も工事は継続された。
当時の天守閣は五層で偉観を誇っていた。嘉明は松山にあること25年、寛永4年(1627)に会津へ移った。その後へ蒲生氏郷の孫忠知が出羽国(山形県)上ノ山城から入国し、二ノ丸の造営を完成した。在城僅か7年のち寛永11年(1630)8月参勤交代の途中京都で病没し、嗣子がなかったので断絶した。
その後、寛永12年(1635)7月伊勢国(三重県)桑名城主松平定行が松山城主15万石に封ぜられて以来世襲して明治維新に至った。
なお、天守閣は寛永19年(1642)に三層に改築されたが、天明4年(1784)落雷で焼失した。文政3年(1820)から再建工事を企画し、35年の歳月を経て、安政元年(1854)に復興した。これが現在の天守閣である。標高132mの勝山山頂に本丸を置き、中腹に二ノ丸、山麓に三ノ丸(堀之内)を置いた。広大な規模を持ち、姫路城、和歌山城とともに典型的な連立式平山城である。(日本城郭協会) |
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幕末の動乱時、松山藩は親藩として、2度の長州征伐に先鋒として出兵し、財政難の極致に陥った。慶応3年(1867)9月、家督を譲られた定昭は14代藩主になるや史上最年少の22歳にして老中に就任。1ヶ月後、大政奉還。願いにより溜間詰上席および老中を辞職。
慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いでは前将軍慶喜に従ったとして朝敵の汚名を受け松山藩追討令が下った。松山藩は土佐藩山内家に占領されるも恭順の意を示し、財政難の中15万両を朝廷に献上し、藩主も定昭から元藩主である勝成を再勤させ赦された。その後、明治政府よりも源姓松平氏と葵紋を返上し、旧姓である菅原姓久松氏に復するよう命が下った。 |
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天守閣、城門、櫓など重要文化財に指定され眺望は雄大を極めている。天守閣は欅、栂、樟材をもって築城せられ、三層建連立式平山城である。松山城の高さは海抜132m、天守閣の1階251u、2階168u、3階102u、天守の高さは21mである。
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