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<松前城> (福山城―国指定史跡)
今から約700年以前の鎌倉時代から和人が移住し、戦国時代の終わり頃に和人政権の拠点となり、その後、武田信広(松前家始祖)がコシャマインの戦(1457)を平定し、蛎崎家を継ぎ、その子光広(松前家2二世)以降代々福山館ができるまで大館に城を築いていた。5世慶広の時、松前氏に改め、幕府より蝦夷地における支配権を認められ、松前藩が成立。
17世崇広が徳川幕府から北辺警備の命を受け、高崎藩の市川一学の設計により安政元年(1854)に日本最後の旧式築城として完成したもので、約76,000uを有する堂々たる城郭であった。特に城内に砲台を備え、一見簡素に見える天守閣も、火器戦争には最もがん丈な意匠構造で、従来の日本式に西洋式が加味されている点は、全国的にも特異な城である。その背景には、ロシアの南下など外国船の日本侵略を防ぐ目的があって、松前城は北辺警備の重大な役割を果たしていた。
現在の天守閣は、昭和36年(1961)に再建されたものである。 |
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<旧福山城本丸御殿玄関>
慶長11年(1606)に完成した城は、当時これを福山城と称していた。しかし、嘉永14年(1637)城中より出火し、多くの建物を焼失、嘉永16年これを修築した。その際、表御殿には京都伏見城の一部が移されたと伝えられている。
明治8年(1875)、北海道開拓使の命令により福山城は取り壊されたが、天守と本丸御門表御殿は残った。表御殿は松城小学校として充用され、明治33年(1900)新校舎が完成した後もこの玄関だけは小学校正面玄関として、昭和57年(1982)まで利用されてきた。(北海道指定有形文化財) |
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・松前藩主装用甲冑(左)
<桐章>(右)
文禄2年(1593)、松前慶廣が豊臣秀吉に謁見した際に拝領したものと伝わっている。もともと聚楽第にあり、拝領後は福山城の本丸表御殿に取り付けられていたが、御殿の解体後、松前神社の宝物となった。 |
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松前城から津軽海峡を望む。 |