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<玖島城(大村城)跡>
慶長4年(1599)、第十九代藩主大村喜前(よしあき)が築いてから、第三十代純熈(すみひろ:幕末)に至るまで、約270年の間、大村藩主の居城であった。
喜前は、豊臣秀吉の死後、天下が再び乱れることを恐れて防備を固くするため、三方を海に囲まれた要害の地、玖島(くしま)を選んで本城を築き、三城(さんじょう)からここに移った。慶長19年(1614)第二十代純頼(すみより)によって、大改修が行われたが、この時、北側にあった大手口を、本小路側に移した。
城の設計は、喜前公と親しかった築城の名人加藤清正と伝えられ、築城奉行は長崎惣兵衛重方であった。この城は城郭研究家の評価も高く、特に扇勾配の曲線を描く石垣が美しい。
本丸跡には、歴代藩主を祀る大村神社が、明治17年(1884)に建てられた。その境内のオオムラザクラは、珍しい二段咲きで、国の天然記念物に指定されている。 |
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<玖島城本丸跡>
ここは、大村藩二万七千石の居城である玖島城の本丸跡です。(上画像右)玖島城は、慶長4年に造られた城です。その後、慶長19年(1614)に大改修を行い、それまで北側にあった大手を南側の大手に改修し、この時、虎口門、台所門、搦手門の三つの入口の形が定まったと伝えられる。
本丸の跡地の内、西半分にあたる大村神社本殿のある一帯には大広間など侍詰所(政庁)があり、東半分の玖島稲荷神社のある一帯には藩主の居館があった。城に天守閣はなく、平屋の御殿だった。本丸を巡る石垣の上には塀を巡らし、矢狭間、鉄砲狭間、石火矢狭間が設けられ、護摩堂や多門櫓があったと記録されている。
玖島城は、明治4年の廃藩置県で大村県庁が置かれたが、すぐに長崎県に合併されたことにより不要となり、建物は取り壊された。その後、明治17年(1884)に旧藩家臣により大村家歴代を祀る大村神社が建立され、現在に至っている。 |
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<少年鼓手浜田謹吾>
明治維新への夜明け慶長4年戊辰の役あり。大村藩早くより勤皇に尽し、殺到土肥に伍して東征北伐の軍を進む。秋田救援の北伐隊三百二十五名洋式装備し精強たり。二番小隊に鼓手浜田謹吾あり、紅顔十五才の美少年にして常に先頭に軍鼓を打ち隊の士気を鼓舞すること勇敢なり。
九月十五日刈和野に激戦し雨霰する飛弾に倒るる者多く、謹吾遂に二弾を浴び、「お母さん」と絶叫し戦死す。鼓音消えて秋風索漠たり屍を角館常光院に納む。内襟に母チカ女の一首あり
ふた葉より手くれ水くれ待つ花は
君がためにそ 咲けよこのとき
子を思い励ます門出の歌に万人みな涙せり星霜移りてここに百十八年今や銅像故山に建つ
あゝ浜田謹吾鼓手の姿よ永久に香れかし 昭和61年11月吉日
この銅像と同一のものが大村市と姉妹都市の秋田県角館町神名社境内にも建立されている。 |
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城跡一帯は大村公園となり桜、つつじ、花菖蒲の名所として広く知られている。 |