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日本三名城の一つに数えられる熊本城は、加藤清正によって築城された。加藤清正は慶長6年(1601)から7年間の歳月をかけ、城郭の広さ約98万平方m、周囲5.3kmにも及ぶ雄大な城を築いた。「武者返し」と呼ばれる石垣や自然の地形を巧みに利用した築城技術により難攻不落を誇った。熊本城は、加藤家2代(44年)、細川家11代(239年)の居城となったが、明治にはいり西南戦争(明治10年・1877)によって大部分を焼失した。
美しい曲線を描く石垣や宇土櫓、監物櫓、平櫓、五間櫓、北十八間櫓、東十八間櫓、源之進櫓、四間櫓、十四間櫓、七間櫓、田子櫓の各櫓、長塀(全長約242m)、不開門は現存している。いずれも重要文化財となっており往時を伝えている。
<大小天守閣の石垣>
熊本城は加藤清正が幾多の経験を生かし、慶長6年(1601)から7年の歳月を費やして完成したものと云われ、特に石垣は「清正流石垣」と称され、その優美な曲線は武者返しの石垣と云われている。
大天守と小天守の石垣では構築方法や構築時間の違いを観ることができる。大天守石垣は裾が広く、下部の勾配が穏やかで上にいくにしたがい勾配が急になっている。小天守の石垣は下部から上方までほぼ一定の勾配であり、かつ急峻となっている。隅部の積み方でも大天守が「重ね積み」に対して小天守は「算木積み」となっていることや大小天守閣石垣の接合部を観察することでも構築時間の違いを確認することができる。
<隅部の積み方の違い>
重ね積みー同じような大きさの石を積み重ねる積み方
算木積みー長方形にちかく加工した石を使用し、長い方と短い方を交互に積み重ねていく積み方
<平部の積み方の違い>
乱れ積みー粗割(余り加工していない)した石をそのまま積み上げる
布積みー方形に近く加工した石を横に並べて積み上げる。 |
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<井戸>
加藤清正は、幾多の実戦の経験から籠城の祭に備えて城内に120余りの井戸を掘ったと云われており、清正の周到な注意(配慮)のほどを伺うことができる。
この井戸もその中の一つで水面までの深さが36mある。このほかに城内には17の井戸が現存している。
<地図石>
この箱形の石組みは、古くから地図石と呼ばれてきた。ここの石組みは城の他の部分とは異なり、切り石の組み合わせで美しく構成されている。そのため、その謎を解こうとして先人たちが色々と苦心し、日本地図・熊本城下町図・熊本城平面図を表現したものなど諸説を出したが、旧藩時代の絵図には「御待合口」との付箋が付いたものがあり、今日では数寄屋丸二階御広間への参入口の装飾であったと考えられている。 |
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<対面所>
対面所(藩主の会見の場)。西側に床の間と付書院(つけしょいん)、南側に違棚が備えられた書院造りです。床壁や襖(ふすま)に若松の絵を復元している。天井は折上げ格天井、部屋境の欄間は筬欄間(おさらんま)です。(18畳)
<数寄屋丸二階御広間>
数寄屋丸二階御広間は、西に五階櫓、東に地蔵櫓門を配し、梁間七間(約13m)桁行18間(約33m)の建物で、南面の壁には銃眼や石落としもついているが、内部一階は土間、二階には書院造の座敷があり、全国の城郭建築の中でも非常に珍しいものである。
数寄屋丸とは、秀吉築城大阪城の「山里丸」の流れをひくもので、熊本城における文化的遊興の空間であったと思われる。茶会・能・連歌の会などが催され、二階御広間もそのような用途に使われていたと考えられる。二間半四方で十二畳半の部屋が主室となっており、床の間は二間半の押板だけというシンプルな構造で、復元に際しては書院造の建物・城内の櫓・絵図等の資料も参考にした。
建築の際は残っていた礎石をそのまま使用し、柱等の主要材は九州山地から伐り出した栂を、梁には松、土台には栗を使用した。 |
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<天守閣とともに灰となった本丸御殿>
明治10年(1877)2月19日、薩摩軍の軍勢が迫る中、城内に本営を構えていた熊本鎮台は市中に火を放つ。それは敵の隠れ家や陣地とならないよう、城下の民家を焼き払う計画だった。そしてほぼ同時刻、城内の天守閣付近でも火の手が上がり、強い西風に煽られて燃え広がった炎は、本丸の曲輪にあった建物全てを焼き尽くしてしまった。城内にて起こった火災については諸説があり、その原因は特定できていない。
<黒い部材が物語る大火災>
本丸御殿で使われていた木材は、焼け落ちた際に壁土や瓦で覆われていたために燃え尽きず炭になって残っていた。通路の上には石垣から爆(は))ぜ落ちた石の破片が積もり、地面は真っ赤に変色し、火災のすさまじさを物語っている。 |
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<銀杏の樹>
ここは築城当時本丸御殿の庭があった場所で、この銀杏の古木は加藤清正が築城を記念してお手植えになったと伝えられている。清正が亡くなるときに、この銀杏の樹が天守閣と同じ高さになったときに何か異変が起こるであろうと予言し、それは奇しくも明治10(1887)の西南戦争のときであったと言われている。西南戦争の際、天守閣や本丸御殿と共にこの樹も焼失したが、幸いにも焼け残った根元からでた脇芽が成長し今ではこのように大きく茂っている。熊本城は別名「銀杏城」とも呼ばれ、毎年晩秋には黄金色に色づいた銀杏の葉と黒と白の天守閣との素晴らしい色合いは訪れる人の目を喜ばせている。 |
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<出土遺物から見える明治初期の本丸御殿>
発掘調査では、本丸御殿跡のいたる所で明治初期の軍用品が出土した。闇(くらが)り通路や大台所北側などで徽章、ボタン、水筒、バケツなどが種類別にまとまって出土しており、「四辻」周辺の石垣際では樽状の木製品が並んでいた痕跡が認められた。硯や水滴、茶碗類のほか、小広間三階櫓跡では「熊本鎮台本営之印」やアメリカ製のピストルなども出土しており、御殿の室内や闇り通路が鎮台の執務室や倉庫として使われていた様子が窺(うかが)える。
下の2段の画像は、F.S さんよりいただいたものである。 |
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なお、現在の大小天守閣は古写真などを基に昭和35年(1960)に再建されたものである。 |
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T・Hさんより。春の熊本城を訪れた時の画像です。桜と熊本城が美しいですね。 |