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高知市の中心にそびえる大高坂山(標高44.4m)にあって、天主閣から市街地のほぼ全域が眺められる。現在は県立高知公園となっている。
高知城は、関ヶ原の戦いの功で遠州掛川6万石から土佐24万石に封じられた山内一豊が、慶長6年(1601)から築いた城です。人夫は毎日1,200人から1,300人を動員し、資材は近隣から集め、瓦は大阪から取り寄せ、一豊は一日おきに浦戸から工事の督励のため現場に赴いた。
慶長8年(1603)には本丸と詰門・太鼓櫓が完成し、一豊は同年8月に入城した。享保12年(1727)には大火にあい、追手門ほか数棟を残して焼失したが、2年後に再建に着手し、24年をかけて復旧した。これが現在の高知城です。
天主閣と追手門がそろって残っていることや、全国で唯一本丸内の建造物がほぼ完全な形で残っていることなどから、城郭史上極めて貴重な遺構です。これらを含めて15の建造物が国の重要文化財の指定を受けている他、敷地は高知城跡として国の史跡に指定されている。 |
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<土佐漆喰>
土佐漆喰は、石灰石に塩を加えて焼成してできた地灰にネズサと呼ばれる発酵させた藁(わら)スサを混ぜて水でこねたもの。きめが細かく厚塗りができ、丈夫に仕上がることから風雨に強いことが特徴である。
塗った直後は、クリーム色だが時間と共に白くなっていく。台風常襲地域である土佐の風土に合ったもので、水切り瓦とあわせて建物の外壁を特徴づけている。
<破風の間>
破風の内部に部屋を設け、人が入れるようにしたものが、初期の形態で実戦的なものである。高知城の破風の間は石打ち棚と呼ばれ、物見や鉄砲狭間の役割があり、攻撃の為の小陣地になり東西南面に設けられている。北側の破風内部は、隠し部屋となっている。 |
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<追手門>
建長年間創建、寛文4年(1664)に再建されたもので、当城では珍しく大きな石を積んだ石垣で枡形を構成し、内部が見通せないように右側に建てられた城の正面である。
重層で入母屋造り、その木割りは太く堂々とし、欅(けやき)を用いた主柱や扉、冠木(かぶき)などには要所に銅製の飾り金具を取り付けている。その規模が大きく、城門としては豪壮優美な趣を備えている。 |
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<三ノ丸石垣>
三ノ丸は、慶長6年(1601)の築城開始から10年を要して最後に完成した。面積は4,641u、出隅部分の石垣の高さは約13m。石垣に使用されている石柱は主にチャートであるが、砂岩、石灰岩も一部使用されており、穴太衆(あのうしゅう)が安土城の石垣で始めたとされる自然石の形を活かした野面積みで多くの面が構築されている。また、三ノ丸には、1,815uの壮大な御殿が建築されていた。
三ノ丸の入口にあたる鉄門付近の石垣は、鉄門の改築に伴い積み直されたものと見られ、砂岩で構成された打ち込みハギで築かれている。 |
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<鉄門跡>
この場所には左右の高い石垣をまたいで入母屋造り二階建ての門が設けられていた。ここを入ると二ノ丸から本丸に通じる重要な位置にあるため石垣は整然と築かれていて、門の扉には多くの鉄板が全体に打ち付けられていたので、鉄門と称された。
小さな桝形を形作っている門の内側には番所があって、弓・鉄砲を持った番人と足軽が詰めていた。
右と正面の石垣の上には矢狭間塀がめぐらされていて、門内に侵入した敵を3方面から攻撃できるようになっていた。左に曲がって石段を上がると、矢狭間塀のために二ノ丸への道は見えず、むしろ詰門への石段が連続して見えるので、自然と詰門の方向に導かれるように巧妙に設計されていた。石段は18段あって「一八雁木」と呼ばれていたが、現在は16段になっている。石段の中間から鉄門の二階に上がれるように設計されており、
そのあたりの石には、切り出した時の楔(くさび)の跡がそのまま残っているものが見られる。 |
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<詰門> (つめもん)
詰門は本丸と二ノ丸の間に設けられた空堀をまたぐ形で建てられており、橋廊下という旧名がある。階上が登城した武士の詰所となっていたため、現在は詰門と称している。
東の出入口は右寄りに設け、西の出入口は中央に付けられていて、筋違いになっている。これは攻め上がってきた敵が容易に通り抜けられないようにという防衛上の配慮によるものである。また、東からこの門を突破しても、容易に本丸には行けないようになっている。
一階部分の南寄りは籠城のための塩を貯蔵するようになっていた。中二階部分は窓も無く物置であったと考えられる。二階は二ノ丸から本丸への通路でもあり、内部の3室を畳敷きとし、家老・中老・平侍と身分に応じて詰める場所が定められていた。板の間の東南隅には非常の場合の階下への抜道が設けられている。また、東面に3ヶ所、西面に5ヶ所の隠し銃眼(狭間)も設けられている。
・構造形式:櫓門、北面入母屋造、二階建。南面廊下門に接続、本瓦葺
・建築年代:享保2年(1802) |
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<三ノ丸>
高知県で一番広い平面で、外周504m、南北85m、東西54m、総面積は4,641uである。往時は、曲折の多い石垣の上には沢山の銃眼(狭間)を設けた矢狭間塀がめぐらされ、東北角には丑寅櫓があった。
また、大書院と呼ばれる広大な建物が建設され、総面積は1,815uもあった。この建物は、主として念頭の礼式や五月節句その他の儀式などで大勢の藩士が参集するときに使われたという。
この大書院は明治維新ののち高知藩の執政府となり、次いで藩知事府から藩庁と改称された。明治3年(1870)藩庁は城西の致道館跡に移転した。明治6年(1873)、公園化に伴い全ての建物が取り壊された。現在は、入口に当たる部分に門柱の建てられていた礎石だけが残されている。
公園整備により多数の桜の木が植樹され、高知の開花を告げる「ソメイヨシノ」の標本木があり、花見の場所として多くの市民に親しまれている。 |
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<二ノ丸>
本丸の北、三ノ丸の西上方に位置するこの二ノ丸は、三ノ丸より約8m高く、標高約40m、外輪の長さ270m、総面積4,128uの台地である。ここに建てられていた二ノ丸御殿は、政務をとる表御殿と藩主が日常の生活をする奥御殿が連続して建てられており、一部2階建てになっていた。総面積は1,233uもあった。
明治6年(1873)公園化にともなって全ての建物が撤去されたが、現在残る築山は、奥御殿の上段の間に藩主が着座したとき、正面に見える位置にあたっている。
二ノ丸はこのほか目付役所やスキヤ櫓、家具櫓、長局(ながつぼね)などの建物があった。特に西北隅にあった二ノ丸乾櫓は、城内にあった8棟の櫓の内では唯一3階建てで、2階と3階の屋根には飾りの千鳥破風を配し、さながら小天守のようであった。
北側の一段下がった所に水の手門があり、綿蔵・綿蔵門を経て城八幡方面や北門の方に通じていた。 |
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<西多聞>
本丸を囲む櫓の一つ。多聞櫓は、長屋状の建物のこと。
本丸の西側の守りを両側に延びる矢狭間堀とともに担っている。内部は、ニ部屋に別れている。外壁は、分厚い漆喰で塗籠られており、火災から守ると同時に風雨に備えたものとなっている。
・構造形式:一重櫓 本瓦葺
・建築年代:江戸時代中期 |
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<石樋>
高知県は全国でも有数の多雨地帯のため、高知城も特に排水には注意が払われている。石樋は、排水が直接石垣に当たらないように石垣の上部から突き出して造られており、その下には水受けの敷石をして地面を保護している。
このような設備は雨の多い土佐ならではの独特の設備で、他の城郭では見ることのできない珍しいものである。石樋は本丸や三ノ丸などを含め現在16カ所確認されているが、下になるほど排水量が多くなるため、この石樋が一番大きく造られている。 |
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狭間と石落とし。 |
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<物見窓>
矢狭間塀に設けられた横連子(れんじ)の武者窓のことで、本丸東南面の物見(監視)を担う軍学上重要な窓。矢狭間塀には、監視や鉄砲を撃つためにある狭間が設けられているが、確認できる範囲が狭いことから監視範囲を大きくとった物見窓が設けられている。
<家紋>
これは「三つ柏」と呼ばれている山内家の家紋で、土佐藩船の船印として使われていた。土佐出身の岩崎弥太郎が三菱を興した時、山内家と岩崎家の家紋を統合させて、会社のロゴを作成した。 |
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<竹の節欄間>
竹の節欄間は、竹の節状のデザインが束(つか)に用いられているもので間仕切りの上部に使われている。この様式は、平安時代の貴族の書院造りの館の間仕切りに用いられた意匠と伝えられている。杉の一枚板戸下部の引き違い板戸は、板目表面を「砂ずり仕上げ」とよばれる方法で仕上げられた一枚板の建具。板戸より数段大きい杉の大木から切り出されたものである。
<駕籠>
一人用の伝統的な乗り物。この覆いのある駕籠は位の高い人に使用された。長い木の棒でつり、2人の男の人が肩に担いだ。14世紀頃、このような駕籠が使われ始め、17,18世紀頃、重要な交通手段として発展した。 |
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<水路遺構>
高知は、雨の多い土地柄であり、高知城には排水のための様々な工夫が見られる。この水路遺構は、三ノ丸に降った雨水を集めて2か所の石樋から排水することにより、石垣内部に泥水が入り目詰まりによるゆるみが生じないよう設けられたものと考えられる。水路は、側板、蓋石で構成されており、主に砂岩が使用されている。底部は、三和土(タタキ)で塗りこめられている。
蓋石を外せば、清掃が容易にできる構造となっており、土砂の流入を防ぎつつ、維持管理を可能なものとしている。大雨が降った際には、石樋の先端から水が放出されたものと考えられる。石樋先端部は折れており側板も一部欠損している。石樋部の底石には、側板を立てるための加工が施されている。 |
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<書院造>
書院造は、寝殿造を母体として発展したもので、室町時代にその形式が生まれ近世に武家の住宅様式として完成した。それは大・小両書院を中心に玄関や台所などを配した一連の建物郡で、個々の建物(書院)は、畳敷きのいくつかの部屋の集合によって構成される。特徴として、部屋の外回りの建具に舞良戸・明障子・雨戸が立てられ、内部は間仕切りが増えて大小の部屋ができ、間仕切りには襖・明障子が用いられる。柱は角柱で壁は張紙が貼られ障壁画などによって装飾される。また、天井には格天井が用いられる。
書院造は主室の床を一段高くして上段とすることや座敷飾りの位置、装飾などにより、身分と格式の序列を表現しており、武家の権威を象徴する建築様式である。 |
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城内の急峻な階段。 |
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<本丸・天主閣>
本丸は標高44.4m、変形の土地で総面積は約1,580uある。その中に天主閣をはじめとして本丸御殿・東西多聞櫓、廊下門・黒鉄門・納戸蔵などが配置され、外回りは銃眼のついた矢狭間でつないでいる。
本丸の全ての天造物が完全な形で残されているのは全国12の城郭の中でも高知城だけで、大変貴重な遺構である。
本丸の建物は、慶長6年(1601)創建、享保12年(1727)火災のため全焼。寛延2年(1749)前後の再建であるが、創建当時の規模をそのまま残している。
天主閣の高さは18.5m。他の城郭に見られる天守台はなく、北面の石垣から直接建ち上がる形にしており、入口は御殿に接している。建坪は168.18u、延べ面積499.84uで、外観は4層であるが、内部は3層で6階になっている。最上階外側の4面には高欄のついた回り縁をめぐらし、外に出て展望することができるようになっている。
2階大屋根と最上層にそれぞれ銅製の鯱を置き、大屋根の南北に千鳥破風、第3層の寄棟部分は東西に唐破風を置くなど、外観を美しく見せる工夫が各所に施されている。力強い軒先の反りも見事で、小規模ながら南海道随一の名城といわれた面影を今に残している。
<漆塗りの高欄>
山内一豊が創建した天守には、現在と同じく黒漆塗りの高欄が取り付けられていた。この高欄は、一豊が徳川家康に願い出て許されたもの。最上階の廻縁に巡らされた高欄は装飾的であり、権威の象徴としての意味も持つ。
天守は、享保12年(1727)に焼失したが、再建後も創建時の天守と同様に高欄が取り付けられた。漆塗りは、32工程の手間をかけて丁寧に仕上げられている。漆は、紫外線に弱く美観を維持するためには、手入れが必要である。 |
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高知城は、明治6年(1873)に明治政府から公園とすることが許可された。その時に、天守は咸臨閣、本丸御殿は懐徳館と名付けられ、一般に開放された。
本丸御殿は、公式の会見で使用される書院造の正殿が設けられるなど、最も格式の高い場所である。本丸御殿の遺構は貴重であり、高知城と掛川城にのみ残されている。懐徳館には、明治12年(1879)から同29年(1896)まで県立図書館の前身である高知書籍館が設置され、図書が一般に公開されていた。また、県内外の有志から歴史的な美術工芸品など多数の資料が寄せられ、見学することができた。現在は高知県立高知城歴史博物館、高知県立歴史民俗資料館などに移管されている。
<天守の「重」と「階」>
「重」(じゅう)は、屋根の重数を見た外観を表し、「階」は、内部の階層数を示している。高知城は、4重6階(重要文化財指定としては4重5階)の構造となっている。5階部分は、窓も狭間も無く「小屋の段」と呼ばれ、安土城や豊臣氏の大坂城など古い時代の天守のの型式を残していると言われている。 |