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<清洲城>
清洲城は当初、尾張守護所の下津藩の別郭として築城された。
その後、下津城が戦乱で消失したため文明8年(1467)に守護所が清州城へ移されたとされている。
戦国の頃、尾張国は守護代の織田氏が実権を握っていた。尾張の上四郡を支配していた岩倉の織田氏と下四郡を支配した清州の織田氏が争うなかで、清州織田家当主の信友を那古屋城主織田信長は攻め滅ぼして清州城に入城し、尾張の拠点とした。
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元の軍勢を打ち破ったのを手始めに、美濃・近江等の近隣の国々を攻略して着々と天下統一へと歩みを進めていった。
しかし、天正10年(1582)の本能寺の変によりその志は夢半ばで断たれてしまった。このように天下統一の礎を築いた織田信長は郷土の英雄として人々の尊敬を集めている。
清州城は、「関東の巨鎮」と称えられ、尾張はもとより東国の中心地として発展を遂げた。信長の長男の信忠、二男の信雄以降は名だたる武将が城主となった。
徳川義直の代の慶長15年(1610)徳川家康は、清州の廃都と名古屋遷都を命じ、3年後には、「清須越し」が完了した。清州城は廃城となり、城下町から、美濃路の宿場町へと姿をかえていった。
<清州城歴代城主>
1 |
織田信長 |
5 |
福島正則 |
2 |
織田信忠 |
6 |
松平忠吉 |
3 |
織田信雄 |
7 |
徳川義直 |
4 |
豊臣秀次 |
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清州町が町制百周年を迎えて平成元年4月、清州のふれあい郷土館として清州城天守閣を再建した。
平成17年(2005)7月に、西枇杷島町、清洲町、新川町が合併し清須市となった後も、清須市のシンボルとして人々に親しまれている。
<表記の規則> (清洲城天主閣)
●慶長15年(1610)の「清須越」以前に登場する地名、施設としての名称は「清須」「清須城」「天守閣」と表記
●「清須越」以降から平成17年(2005)清須市誕生以前の宿名、村名、町名は「清洲」と表記
●当施設の名称として使用する場合は「清洲城」「天主閣」と表記 |
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戦国時代の武士たちの多くは半農半士の生活を送っていた。農繁期にはそれぞれの土地で農事に励み、戦いになると鍬や鋤を、刀、槍に持ち替えて戦場に臨むのが普通の武士の生活であった。
この常識を覆したのが信長の兵農分離政策だった。兵士を農業から引き離し扶持(ふち)を与えることで、農繁期でも職業軍人としての訓練を与え、戦い専門の戦闘集団へと変えていった。
一方で農業に携わる人間も専業化し兵糧の安定供給を図る。こうして「兵」と「農」を分離することで、織田家中を長期の遠征にも耐えられる強固な軍団へと変貌させることに成功した。 |
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<信長塀>
永禄3年(1560)織田信長が桶狭間へ出陣の途中、熱田神宮に戦勝を祈願し、大勝したのでそのお礼に奉納され塀をモデルにしたものです。 |
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信長は、幸若舞「敦盛」の一節を特に好んで演じたと伝えられている。「人間五十年」は、人間の定命は50年であるとの意。「下天」(げてん)は、六欲天の最下位の世で、一昼夜は人間界の50年にあたり、住人の定命は500歳とされる。人間の命は天上界の最下位である下天の住人に比べてもはかないものである、という内容である。
<幸若舞「敦盛」の一節>
思へばこの世は常の住み住処にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄(もてあそぶ)ぶ輩(ともがら)も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度(ひとたび)生を享(う)け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、
口惜しかりき次第ぞ |
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信長が行った主要政策として名高い「楽市楽座」。しかし、これは信長が始めたわけではなく、信長だけが行った政策でもない。むしろ清洲では行わず、占領地である岐阜で楽市楽座の布告を出している。
そこには楽市楽座で商いをする者へのさまざまな特権ー免税をはじめ街道通行料の無料化、借金返済の凍結など、当時の商人たちにとって夢のような制度が記されている。実は信長は楽市楽座の布告によって、清須などから新興商人を岐阜に呼び寄せる狙いがあったのです。清須から呼んだ商人たちを楽市楽座によって保護することで、岐阜の既存商業勢力の力を奪うことが目的だったのではないかと考えられている。占領地に一種の経済特区を形成することで在地経済団体を圧迫し、尾張その他の新興商人を発展を助けて経済と物流の活性化を促進する。
楽市楽座には、経済の重要性を知り尽くした信長による、一種の経済戦争の側面もあった。 |