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勝間田城は、勝間田氏が15世紀中頃に築城したと考えられる戦国時代以前の原型を残した貴重な山城です。牧之原台地に連なる尾根標高100〜130m程、勝間田川最上流部に位置する。その規模は東西200m、南北310m、総面積12,695uを測る。
昭和60年度(1985)ら数次にわたる発掘調査により、多くの遺構(建物跡・井戸・堀)や遺物(土器・木簡・古銭等)が検出され、築城過程、建物の配置、城内生活の実態を知ることができる。
木簡に書かれた文章からは、笠原を姓とする武将の存在や、池田衆と呼ばれる土着の兵力まで城内に在城していたこと、籾や竹を調達して食料や武器・建物に利用していたことなどが推測できる。
本曲輪を中心に狭小である南区域に対し、幅10m程の大堀切を挟む北区域二・三の曲輪は、一区画が広く外縁部に土塁を巡らしている。南区域より後代改修の可能性が考えられる。
東方を向いて配置された堀・土塁・曲輪は今川氏に対する備えといえるだろう。 |
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案内図に沿って本曲輪まで進む。 |
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出曲輪。 |
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三の曲輪へ進む。 |
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三の曲輪。 |
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土塁。 |
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二の曲輪。 |
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堀切。 |
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北尾根曲輪。 |
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動画:本曲輪。
勝間田氏は、この地方を本拠地とする豪族で、勝間田平三成長は鎌倉幕府の御家人となり、その子孫の長清は「夫木和歌集」を編纂している。
元弘の乱(1331)には、河内(現在の大阪府)の赤坂城、千早城の攻防に一族が攻撃側と守備側の両陣営に分かれて参戦していることが記録に見える。
室町期に入り、将軍の直属軍として応永の乱(1339)や永享の乱(1439)に活躍し、応仁の乱が起こるや今川氏と対立し、今川義忠の猛攻の前に文明8年(1476)遂に落城。一族は四散した。一説には現在の御殿場市周辺に移り住んだと伝えられている。
応永年間に勝間田定長が築城したと推定されているこの城は、中世の代表的な山城で、牧ノ原台地に連なる尾根を巧みに利用して曲輪,土塁,堀切が設けられ、南東部の尾根には他の城跡に例を見ない鋸状の堀切が見事に残っている。
文明8年の落城後、この城が再び使われたとする記録は見あたらないが、遺構からはその後手が加えられた形跡が認められる。(説明文は、現地解説文を引用) |
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