|
|
|
|
|
|
<金沢城の歴史>
中世末期に一向一揆の拠点として金沢御堂がこの地に置かれ、天正8年(1580)に佐久間盛政が入城し、金沢城の造営が始まった。
その後、天正11年(1583)前田利家が入城し、本格的な近世城郭へと姿を整えていった。文禄元年(1592)の石垣普請、元和7年(1621)の本丸の拡張などを経て、寛永の大火後(1631年以後)現在の金沢城に近い姿になった。
現在天守閣はないが、慶長7年(1602)の落雷によって焼失するまで本丸にそびえていた。焼失後、天守閣の代わりに三階櫓(やぐら)が建てられ、宝暦9年(1759)の火災まで城のシンボルとなっていた。二の丸には寛永の大火後、二の丸御殿が造られ、藩主の御殿および藩庁としての藩政の中心にあった。三の丸には鉄砲所、新丸には作事所・細工所などの施設があった。
櫓の数は多い時は20棟を数えたといわれ、鉛瓦や海鼠(なまこ)塀が貼られた石川門や三十間長屋など、金沢城独自の偉容を誇ったと伝えられている。
明治4年(1871)廃藩置県で明治政府のの所轄となって旧陸軍の拠点となり、昭和24年(1949)からは金沢大学のキャンパスになった。その後、大学の移転により平成8年(1996)に石川県が取得し、金沢城公園として整備を実施している。
<石川門>
金沢城の搦手門(からめてもん・裏門)として重要な位置にあり、河北門、橋爪門とともに金沢城の「三御門」と呼ばれた。三の丸東端に位置し、石川郡に向いていることから石川門と呼ばれた。櫓と櫓を長屋でつないだ重厚な枡形(ますがた)門に造られている。宝暦の大火(1759)の後、天明8年(1788)に再建され、現在に伝わっている。石川櫓は門の出入りと小立野方向を見渡す着到櫓でもあった。屋根は鉛瓦を葺いてある。昭和25年(1950)国の重要文化財に指定された。
<石川橋の歴史的変遷>
石川橋の全身は、百間堀を横断して金沢城と兼六園を結ぶ土手であった。その後加賀藩主前田利家らにより幾度か改修の手が加わり17世紀後期頃には石垣づくりのものとなった。明治44年(1911)百間堀を埋め立て道路が築造されると同時に、当寺の最新技術で橋長23.8mの鉄筋コンクリートアーチ橋が誕生した。その後80年余の永きにわたり市民に親しまれてきたが、橋下の県道拡幅の伴い、平成7年(1995)に都市計画道路今町線シンボルロード整備事業において旧橋の面影を継承した橋長36.3m、幅員10.5mの新石川橋が築城された。 |
|
|
|
|
|
<百間堀>
金沢城と兼六園の間は、かつて百間堀のあったところです。金沢御堂陥落後、佐久間盛政の時代(天正8〜11年、1580〜1583)につくられ、前田利家の入城後、その子利長により改修されたと言われている。小立野台と金沢城とを分断する、防衛上重要な水堀で、長さ約270m、幅約68.4m、水深約2.4mあり、その大きさから百間堀の呼び名がついたようです。明治43〜44年(1910〜1911)の道路工事により、現在のような姿になった。
なお、別名蓮池堀とも呼ばれ、その由来については、もと蓮が群生する沼地であったためとも、金沢御堂の時代、極楽浄土に見立てた地名の名残とも言われている。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
<石垣>
金沢城では、前田利家の入城後、本格的な石垣づくりが始まった。出入口や庭園といった場所に応じて、特殊な技術やデザインが工夫されたこと、また何度も修築が繰り返されたことなどから、現在、様々な種類の石垣を見ることができる。
さらに、石垣づくりの秘伝書、石を切り出した丁場、石引き道の存在など、石垣に関する歴史資料や環境がそなわっていることをあわせ、金沢城は「石垣の博物館」と呼ばれている。
○野面(のずら)積み
自然の石や粗(あら)割りしたでけの石を用いて積む技法で、東の丸周辺など古い時期の石垣に見ることができる。
○打ち込みハギ
形の整った割石を用いて積む技法で、二の丸などの郭(くるわ)の外周などに見ることができる。
○切り込みハギ
割石をさらに加工した切石を用いて、隙間なく積む技法で出入口など重要な部分の石垣に見ることができる。 |
|
|
|
|
|
菱櫓は、二の丸北東角にある着到櫓で、名前の通り櫓全体が菱形に造られており、三の丸から新丸にかけての物見と二の丸の防御を兼ねていた。
五十間長屋は、二の丸最大の長屋で、二の丸や橋爪門周辺の警備の役目を果たしていた。
橋爪門続櫓は、着到櫓で、橋爪門の出入りを監視する役目を持っていた。
これら3つの建造物は、資料や古写真に基づき、文化の大火(1808)後の姿に忠実に復元した。 |