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<横須賀城の歴史>
戦国時代末期この地方は西の徳川勢力と東の武田勢力との境界地域となって攻防が続いていた。天正2年(1574)遠江国の要である高天神城が武田氏の手に落ちた。
天正8年(1580)徳川家康は、家臣の大須賀康高に命じ高天神城を奪還するための拠点として横須賀城を築かせた。康高が初代城主となり、以後、明治維新に廃城になるまで288年20代の城主を数えた。
<横須賀城の大きさなど>
史跡(指定地)面積 168,419.64u。東西最大長さ 650m。南北最大幅 350m。南北最小幅 195m
<横須賀城の特徴>
横須賀城は、小笠山から西に張り出した尾根とそれに続く長い砂嘴(さし)地形を利用して築かれた東西に長い形をしている。築城当時、山城として築かれた本丸・松尾山に近世以降の拡張工事によって、二の丸郭、三の丸郭の平城部分が付け加わり、平城と山城の特徴を兼ね備えていることから、平山城といわれている。また普通一か所しかない大手が、東西二か所にあることや、玉石積みの石垣も特徴の一つです。
<天守台の遺構>
横須賀城の天守は建坪40坪余、4層の建物と記録されている。ここからは礎石と礎石を抜き取った穴がおおよそ2mの間隔で碁盤目状に27箇所検出され天守跡と考えられる。天守台周囲には低い石垣があり、東南隅には入口と考えられるスロープがある。建物跡東側には、砂利敷きされた平坦面があり、北側には防御のため土塁があった。天守台の周囲からは天守に使われた瓦が多量に出土しており、西側からは鯱(しゃち)瓦の頭部が南側からは尾の部分が出土した。 |
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<本丸南斜面中段の遺構>
この区域の北側と東側からは、5段目までの石積みが残る石垣が出土した。北側の石垣部分からは、塀に使われた瓦が石垣上部から落下した形で出土した。
<本丸南下門跡推定地の遺構>
この区域は、天守台方面へ至る玄関のような重要な部分に当たり、自然の尾根や谷を巧みに利用して門や塀などの施設により厳重に固められていた。
<三日月池北側中段の遺構>
当時の絵図を見ると本丸東端部から、三日月池方面へ下るスロープ状部分と石垣が描かれている。
<本丸跡土坑群>
土坑とは、いろいろな用途のために地面に掘られた穴の事。この土坑からは、17世紀から18世紀初頭にかけての陶磁器類などが出土している。 |
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<横須賀湊と横須賀城>
江戸時代中頃まで、城のすぐ前から北西裏にかけて遠州灘が深く入り込む入江があって、横須賀城を天然の要害としていた。入江には横須賀湊があり、大きな船も寄港し水上交通と物流の拠点となっていた。また、この入江と外堀を区切る形で中土居と呼ばれる土手があり、横須賀から袋井に通じる街道となっていた。
小笠山を挟んで立地する掛川城が、陸の大動脈東海道の押さえであったのに対し、横須賀城は海辺の道と海上交通の要衝である遠州灘の押さえとして重要であったと考えられる。
城前のこの入江は、宝永4年(1707)の宝永大地震による地盤沈下によって干上がり、横須賀城周辺の様子は一変するとともに湊も使えなくなり、横須賀城と城下町は軍事と経済面で大打撃を受けたと考えられる。湊が使えなくなった以後は西方の太田川河口の福田湊まで運河が造られて小舟が行き来した。 |
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<歴代城主>
大須賀氏2代の後、豊臣系の渡瀬氏、有馬氏が2代、その後は、松平(大須賀)、松平(能見)、井上、本多、西尾の譜代大名の居城となった。
<明治維新の廃城と国史跡指定>
明治元年(1868)20代城主西尾忠篤は、明治維新の激動のなか、安房国花房(現・千葉県鴨川市)に移され、横須賀藩領は徳川家達(いえさと)の領地となって静岡藩に含まれた。明治2年8月には横須賀城も廃城となった。
明治6年(1873)には城内の土地、建物、石垣、立木まで民間に払い下げられて、町並みや田畑が形成され、更に堀も埋め立てられ城としての景観を失った。そして、昭和46年(1971)には本丸一帯を宅地化する計画が持ち上がり、この城跡消滅の危機に住民から城跡保存の声が上がり、昭和56年(1981)5月8日付けで国史跡に指定された。以後、土地公有化と遺構復原整備が進められている。 |
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