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<本丸址>
元亀2年3月、武田信玄来攻に備えて、城主小笠原長忠二千騎を以て籠城、本丸には軍監大河内政局武者奉公渥美勝吉以下五百騎と遊軍百七十騎が詰めた。
天正2年5月、武田勝頼当城包囲猛攻。6月28日激戦7月2日休戦9日開城、城主長忠武田方に降り城兵東西に分散し退去、武田方武将横田尹松城番として軍兵一千騎を率いて入城した。
天正7年8月、城兵交代、武田方猛将岡部丹波守真幸(元信)城代として一千騎を率いて入城した。
天正9年3月、徳川家康来攻包囲10ヶ月、城中飢に瀕し22日夜半大将岡部真幸、軍監江馬直盛以下残兵八百、二手に分かれて城外に総突し激斗全滅した。23日家康入城検視、武者奉行孕石元秦諜せられた。城郭焼滅廃城となる。 |
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<搦手門跡>
城の裏門に当たり、城南から出てくる者を搦め捕る意味からこの名がある。元亀から天正2年にかけて、渡辺金太照が大将として城兵二百五十余騎を率いて守備した所である。 |
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<三の丸跡>
城内の武将が宿営した所であるが、元亀2年より天正2年にかけて、武田勢が来攻当時、小笠原与左衛門清有が三の丸の大将として、城兵250余騎を従えて守備した。別名、与左衛門平とも言う。 |
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<西の丸跡>
西の丸は岡部丹波守真幸が守備していた時期があり、丹波曲輪とも呼ばれている。右は的場曲輪跡。 |
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左は御前曲輪跡、右はかな井戸・井戸曲輪跡。 |
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<大河内幽閉の石風呂(石窟)>
天正2年6月、武田勝頼来攻包囲、28日激戦酣(たけなわ)となった。城主小笠原長忠隊に叶わず武田方に降り城兵東西に離散退去したが、軍監大河内源三郎政局独り留まり勝頼の命に服さず勝頼怒って政局を幽閉した。武田方城番横田尹松政局の義に感じ密かに厚く持て成した。
天正9年3月、徳川家康城奪還23日入城し、城南検視の際、牢内の政局を救出した。足掛け8ヶ年、節を全うしたが歩行困難であった。家康過分の恩賞を与え労をねぎらい津島の温泉にて療養せしめた。政局無為にして在牢是武士道の穢(けが)れと思い剃髪して皆空と称した。後年、家康に召されて長久手に戦い討死した。
夏草に覆われ牢がよく見えない。 |
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<三日月井戸>
天正2年7月より籠城した武田勢は飲料水に恵まれるようにと水乞いの祈願をこめて、井戸を造った。今もごくわずかながらも岸壁からしみ出る垂水が耐えることがない。 |
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<切割>
尾根伝いに攻め寄せる敵兵を防ぐ目的で作ったもの。 |
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<甚五郎抜け道>
天正9年3月落城の時、23日早朝、軍監横田甚五郎尹松は本国の武田勝頼に落城の模様を報告する為、馬を馳せて、是より西方約一千米の尾根続きの険路を辿って脱出し、信州へ経て甲州へと抜け去った。
この難所を別名犬戻り猿戻りとも言う。(左画像)
右画像は土塁の跡。 |
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左は元天神社、右は高天神社。 |
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馬場平とそこからの眺望。遠くに遠州灘を望む。現在は風力発電用の風車が並んでいる。 |
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本丸跡へ登っていく途中で地層を見ることができる。ここは昔、水の底でありそれが隆起したことになる。、 |
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天神城は室町時代、駿河の今川氏が遠江侵攻の拠点として築いたとされ、戦国時代には駿河・遠江をめぐる武田氏、徳川氏の激しい攻防の舞台となった。
元亀2年(1571)には、武田信玄が徳川方となった天神城を攻めており、このときは大規模な戦闘は行われなかった。
天正2年(1574)5月には、信玄の息子勝頼が当城に攻め寄せ、徳川方の城主小笠原与八郎長史(氏助)は1ヶ月程の籠城と激しい戦闘の末、開城し武田方に降っている。その後、武田方となった天神城は徳川家康の攻撃をたびたび受けることとなる。
天正3年(1575)5月の長篠の戦い以降、勢力が衰えた武田氏は当城を支えきれず、天正9年(1581)3月22日、ついに落城した。天神城はその後すぐに廃城となり、現在に至っている。 |