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犬山城は、木曽川に面した通称「城山」を中心に、西側にある三光寺山も城郭範囲とする平山城である。山の頂点に本丸を構え、本丸南側に「杉ノ丸」、「桐ノ丸」、「樅(もみ)ノ丸」、「松ノ丸」があり、
その間を大手道(本丸に向かう道)が通る構造になっていた。
大手道や、周囲を石垣や堀などで防御した平場である郭には、かつて門や櫓が作られており、 守りを固めていた。 城山の西側は「西谷」と呼ばれ、材木小屋や馬場があった。
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城内の様子。敵に対する防備もあって階段は勾配がきつい。急峻な階段に、ここを上り下りしていたのかと驚く。
<唐破風の間>
南北に唐破風の間を配置し東西を千鳥破風となっている。当初天守築城当時はなく元和4年(1618)から貞享2年(1687)にかけて、70余年の間に成瀬城主が装飾として増築したものと伝えられている。広さ:81.936平方メートル
<付櫓>
位置は東南のすみの突出部にあたり、攻撃、守備用として造られたという。突出部は下段に3ヶ所の連子窓がありそれぞれ遠くまで見渡すことができる。広さ:15.22平方メートル(8畳余)(3段目画像)
<高欄の間>
最上階の4階を「高欄の間」という。廻縁からの展望は素晴らしく戦国時代の見張台。及び司令塔であったとみられる。又、対岸は美濃の国で、自然の断崖という天然の防備を持っている。広さ:49.835平方メートル。 |
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<天守>>
犬山城の本丸北端には、天守が現存する。天守の形式は、二重の入母屋造屋根の上に望楼を乗せた形式であり、古い形式であると言われている。
全国に現存している12の天守のうち、最も古い形式を備えているとして、文化財保護法により、昭和27年(1952)に国宝に指定されている。天守の構造は入り口のある石垣の中が地下二階となり、石垣より上が三重四階となっている。木曽川に面しているため、天守から木曽川が一望できる。遠くに雪を頂いた御嶽山が見える。 |
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<天守閣構造の大要>
坪数 |
約二百坪 |
外観 |
三重(内部四階、石垣の中二階付) |
一階 |
納戸の間 百五十畳
中央部四室に区画した所があり、西南部に床が七寸く、所謂、上段の間が南面して設けられ、天井 床の間 床脇等の痕跡もあり特別室になっている。創建当時の城主の居間でその北が武者隠の八畳で、万一を警護する武士の詰所である。東二間は共に納戸で六畳と十畳とあり、以上四室を取巻く二間巾の板の間は武者走りと言う |
二階 |
武具の間、百四十四畳 中央部が武具の間で西北東に武具棚がある |
三階 |
唐破風の間、二十八畳 小間合わせて四十一畳 外観二重の屋根裏に当る |
四階 |
物見の段、二十八畳 四方に約半間の廻縁及勾欄あり展望がよい |
天守の石垣 |
低いのは室町時代特徴である |
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犬山城の骨組み。 |
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<犬山城の歴史>
犬山城は、天文6年(1537年)に織田信長の叔父にあたる織田与次郎信康によって造られた。
戦国時代なので、その後何代も城主が代わったが、1600年の関ヶ原合戦の頃を中心に、城郭は整備されていった。小牧長久手合戦(1584年)の際には、豊臣秀吉は大阪から12万余の大軍を率いてこの城に入り、小牧山に陣をしいた徳川家康と戦かった。
江戸時代になり、尾張藩の付家老、成瀬隼人正正成が元和3年(1617)城主となってからは、成瀬家が代々うけついで明治に至った。
明治4年(1871)、9代目成瀬正肥のとき、廃藩置県で廃城となり、櫓や城門など天守閣を除く建物はほとんど取り壊されてしまった。
明治24年(1891)の濃尾震災で天守閣の東南角の付櫓など、ひどく壊れたので、それを修理する条件で再び成瀬家所有の城となった。
その後、伊勢湾台風などでも被害をうけたが、昭和36年(1961)から40年まで4年間をかけて解体修理を行った。望楼型の独立天守で、高さは24mです。
国宝に指定されている犬山城、松本城、彦根城、姫路城、松江城のなかでも、最も古い城である。平成16年4月、財団法人 犬山白帝文庫が設立され、城の所有は個人から財団法人になった。 |
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<大杉>
犬山城築城頃からの老木で、天守閣と同じくらいの高さがあり、落雷には城の身代わりに、台風の時は風よけにもなったりして城を守る御神木として崇められていた。しかし、昭和40年(1965)頃枯れてしまった。樹齢:約650年。高さ:枯れる前約24m |