|
|
今治城の地は瀬戸内海に面し、「吹揚の浜」(ふきあげのはま)と呼ばれた砂丘地帯だった。
築城の名手として名高い藤堂高虎は、関ヶ原の戦功により伊予(愛媛県半国20万石を領し、慶長7年(1602)にこの地に築城を開始した。約5年の歳月をかけて慶長12年頃に完成したと考えられている。
高虎はその直後、伊勢・伊賀(三重県)に移り、今治城には養子の高吉が在城する。寛永12年(1635)には徳川家康の甥にあたる松平(本姓は久松)定房が3万石で今治城主となり、明治維新まで続いた。
明治時代になって城の建物全て解体されたが、城の中心部の石垣と内堀がほぼ完全に残っており、昭和28年(1953)に愛媛県史跡に指定された。現在では天守をはじめとする櫓・城門などの再建が進み、雄大な城郭の姿を見せている。(騎馬像は藤堂高虎) |
|
|
|
|
|
<鉄御門>
門扉を鉄板で覆った表玄関です。平成19年(2007)に復元された。
<高麗門跡>
鉄御門の手前にあったもう一つの城門(高麗門)
高麗門と鉄御門の二つの城門で、攻めてくる敵を食い止め、さらに二つの城門に挟まれた四角形の広場(枡形)に敵が進入すると、周囲の多聞櫓から攻撃を加えることができた。最も守りが固い虎口(城の入口)構造で、藤堂高虎が創始した築城術の一つです。 |
|
|
|
<勘兵衛石>
今治城で最大の石。城主の権威を示すために目立つ場所に据えられた巨石(鏡石)で、今治城の入口の正面にある。石の名前は、今治城築城奉行と伝わる渡辺勘兵衛に因んだもので、江戸時代には既に「勘兵衛石」と呼ばれていた。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
今治城の特徴は、広大な水堀と高い石垣です。全国的にも大変珍しい海水を引き入れた海岸平城で、日本三大水城(高松城、今治城、中津城)の一つに数えられている。堀は潮の干満で水位が変わり、海の魚の泳ぐ姿を見ることができる。
天守からは今治平野・瀬戸内海・四国山地を一望できる。 |
|
|
|
|
|
|
|
<層塔型天守>
創建時の五層天守は、各階を順次小さくして積み上げる史上初の「層塔型」だった。従来の望楼型と比べて構造が単純で容易に建立できるため、その後の天守のモデルになった。慶長15年(1610)に丹波亀山城(京都府)に移築された。
現在の天守は、本丸跡の北隅に昭和55年(1980)に再建した模擬天守(五層六階)で、内部は歴史資料館と自然科学館になっている。
<今治城の別名>
今治城は、さまざまな別名を持っている。砂の吹き上げる海岸に建つため「吹揚城」、海岸を意味する「須賀」から「美須賀城」(みすがじょう)などと呼ばれた。
今治という地名も、「いまはる」「いまはり」とも呼ばれ「今張」「今針」などと記された。 |