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飯田城は、室町時代に坂西(はんざい)氏が築城したといわれ、その後、武田・織田・徳川氏らの支配下に置かれた。次いで、豊臣氏に封ぜられた毛利・京極氏は城と城下町の大改修を行い、飯田町も基礎を形づくった。関ヶ原の合戦後は飯田藩主小笠原・脇坂・堀氏の居城となり明治4年の廃城にいたる。
城は、段丘の突端部を利用した平山城である。脇坂時代の絵図によれば、本丸・二の丸などの6つの郭からなり、空堀や水堀によって区画されていた。
<赤門>
赤門は長姫城櫻丸の門で、宝暦4年4月(1754)に上棟された。本丸は町から遠く不便なので櫻丸で政務をとったといわれる。入母屋造りで瓦葺、鬼瓦には堀氏の家紋「向梅」が使われている。平面は二本の鏡柱「と控柱とで構成され潜戸を設けてある。
明治になり飯田県・筑摩県飯田支庁・下伊那郡役所・地方事務所等の郡衙の正門として使われてきた。 |
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<御用水跡> 飯田城二の丸
この水路は、発掘調査で発見された御用水を再現したものである。風越山(1535m)山麓で松川から取った水は、城下町を潤し、城突端の山伏丸の池まで引かれていた。本来は、西方の二の丸御門から直線的に伸びていた。 |
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<大通り跡> 飯田城二の丸
二の丸を貫く大通りの両側には、白壁の土塀が続き、各所に飯田藩重臣の屋敷の門があった。
発掘調査(昭和61年・62年)によれば、道路幅約5mで北側に水路(御用水)が作られていた。ここに再現した大通りと御用水は、本来の位置とは若干異なっている。 |
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美術博物館本館と飯田消費生活センターさらに道路北側の住宅地を含めた一帯は二の丸にあたる。古絵図によれば、中央を東西方向に大通りが伸び、両側には飯田藩重臣の屋敷があった。廃城後、明治17年(1884)から昭和57年(1982)まで公立学校(飯田中学校・飯田商業学校・飯田長姫高等学校など)の用地ともなっていた。
美術博物館建設に先立つ発掘調査では、二の丸に関連した水路・井戸・貯水池・建物跡などの遺構や、中世の古飯田城に関連した空堀跡・住居址などが発見された。 |