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昭和20年(1945)8月6日の原子爆弾によって、毛利輝元が築造した広島城天守閣は倒壊し、石垣を残すだけとなった。昭和33年(1958)広島復興のシンボルとして天守閣が復元されることになった。 |
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<史跡 広島城跡>(昭和28年(1953)国指定)
○史跡指定地 本丸跡、二の丸跡、堀およびその周辺
○別名 鯉城(りじょう)・在間城
○形状 太田川河口の低湿なデルタ上に築かれた輪郭式の平城
○沿革
天正17年(1589) |
毛利輝元 築城工事に着工 |
天正19年(1591) |
毛利輝元 入城 |
慶長 5年(1600) |
福島正則 入城 |
元和 5年(1619) |
浅野長晟 入城 |
明治 4年(1871) |
廃藩置県により本丸内に広島県の役所が置かれる |
明治27年(1894) |
日清戦争時本丸内に大本営が設けられる |
昭和20年(1945) |
原爆により天守閣、太鼓櫓、表御門などすべて崩壊 |
昭和33年(1958) |
現在の天守閣再建 |
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<二の丸表御門>
表御門は天正期末(16世紀末)頃の構造と推定され、昭和20年の原爆破壊による焼失の約350年間存続していた。
現在の表御門は、平成元年(1989)の広島城築城四百年を記念して復元に着手し、平成3年(1991)に完成したものである。
この平成の復元では、昭和9年(1934)に当時の陸軍第五師団経理部が作成した実測図をもとに、発掘調査の成果や明治期から昭和期にかけての写真を総合的に検討して、焼失後も残存した表御門の礎石(柱下の石)上に、昔どおりの工法によって往事の姿をよみがえらせている。 |
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<二の丸の建物>
二の丸の建物は、東南隅に二階の太鼓楼、西南に平櫓と表御門、それらの間の多聞櫓から構成されており、毛利輝元が広島城を築城した天正期に、これら二の丸の建物も建設されたと考えられている。
これらの櫓の外壁は、黒く塗られた板を張った下見張りで、姫路城などの白漆喰を塗り込める総塗籠の外壁と比べて武骨な印象を与える。内部は梁をむき出しにし、柱や長押も漆などを塗らずに、木の肌を出したままであるため、広島城は質素な造りであると言える。
二の丸内の建物は、廃藩置県後に陸軍の施設が次第に置かれたため、大半は失われていったものの表御門、太鼓櫓、多聞櫓の東半分は江戸時代のまま残されていた。しかし、昭和20年(1945)の原子爆弾の投下により石垣を残し、これらの櫓群は全て壊滅した。
現在の二の丸の櫓は、平成元年(1989)、広島城築城400年を記念して、毛利輝元が建てたころの様式を復元したものである。平成3年(1991)に表門櫓、平成6年(1994)には平櫓、多聞櫓、太鼓櫓が復元され、広島の伝統工芸の展覧会や、お茶会の開催、和楽演芸の公演など、広島の文化を紹介する場として活用されている。 |
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<狭間>
壁面の□や△の穴は「狭間」(さま)と呼ばれている。この穴から火縄銃や弓を放って敵を攻撃する。正方形や三角の穴は、火縄銃で攻撃するための鉄砲狭間、縦長の長方形の穴は、矢を放つための矢狭間です。 |
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天守閣の梁材(左)と石垣(右) |
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毛利輝元の書状。 |
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天守閣とそこからの眺望。 |
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<礎石>
ここに据え付けてある石は、昭和33年(1958)天守閣再建に際して、もと、天守閣柱下の礎石を掘り起こして原型のまま移したものである。玉石排水溝の内側が天守台の大きさである。一段低く据えてある石は今もなお天守台の地下に埋もれている礎石の位置を示している。 |