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<平戸城(亀岡城)>
平戸松浦氏は秀吉政権下の天正15年(1587)、63,200石の大名となった。文禄慶長の役では約6,000の軍兵を率いて朝鮮半島を転戦し、帰還後の慶長4年(1599)初めてここに「日の岳城」を築いたが、同18年に大火により焼失した。これからおよそ100年後の宝永元年(1704)、徳川幕府の許可のもと、亀岡城(平戸城)再築に着手。15年の歳月と人夫約555,000人、銀1,180貫余を費やし、享保3年(1718)に完成した。山鹿流の縄張りによる日本唯一の平山城です。
総面積約54,000坪(18ヘクタール)最上部の本丸は海抜16丈2尺(約50m)、城郭部は白浜郭を含む外郭、三の丸、二の丸、本丸の4層からなる。
往時の木造遺構としては北虎口門と多聞櫓(狸櫓)が現存し、昭和35年(1960)より乾三重櫓、地蔵坂櫓、見奏櫓、懐柔櫓、沖見櫓(現天守閣)が再建された。
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<平戸城北虎口門扉)>
宝永4年(1704)、築城当時のもので、北虎口門のくぐり戸であった。この門は、南側に位置する大手門に対し、北側の守りのかなめであった。
<狸櫓由来記>
この建物の名称は正しくは「多門蔵」であるが、これまで誰も「多門蔵」とは呼ばず「狸櫓」とばかり呼ばれてきた。
その由来については第三十五代藩主「松浦観中公熙(ひろむ)」が「亀岡随筆三十六」に記している。
この狸櫓より100mばかりおりたところに「平戸の松浦家」があり、今も当時の狸の末裔と思われる一家が昔の約束通り旧家を護っている。もちろん扶持米(餌)もいただいているとか・・・ |
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<明治天皇産着>
祐宮(さちのみや)誕生後の御七夜に孝明天皇から贈られた産着。身の丈約2尺3寸。絹の白羽二重で、両胸元に菊花紋章(16重弁)と松竹梅鶴亀がそれぞれ織り込まれている。
右画像は「かくれキリシタン神奏具」(参考品)である。 |
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<遣唐使船の由来>
遣唐使は舒明天皇(630)より以降、承和5年(838)まで12回入唐した。航路は初め朝鮮半島の沿岸を通る北路であった。中頃は薩南半島を島づたいに南下し、東シナ海を横断した南島路である。後期は田ノ浦から一気に揚子江付近に達する南路がとられた。遣唐船は通常4隻で出発し、次の人々が乗った。
大使、福使、押使、持節使、判官、録事、造舶都匠、訳語、主神、医師、陰陽師、画師、史生、射手、船師、占部、音声長、鍛生、鋳生、柁師、水夫等500〜600人である。 |