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桜門橋を渡り、大手門を通ると目の前には、三の丸広場が広がり、その正面には大天守が飛び込んでくる。現在の姫路城の姿である。
江戸時代、城の大手は二重枡形門という特に厳重な構造であった。内堀に架かる木製太鼓橋を渡ると、高麗門の桜門があり、その奥、現在の大手門がある場所には、桐二門が西向きに設けられ、さらにその北には、向きを反転し東を正面とする櫓門の桐一門という、3つの門からなっていた。 |
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この桐一門を通れば、三の丸広場のほぼ中央に幅約21mの大手道が大天守方向に向かっていた。道の南西には、武蔵野御殿、さらにその西の高台には、御本城(御居城ともいう)と呼ばれる御殿があった。総面積約4,000uにも及ぶ殿舎は、元和3年(1617())に入封した本多氏が整備したとされ、藩政の中心をなしていた。道の東側には、向屋敷があり、藩主の娯楽や接客のため、数寄屋、築山、泉水などの広大な庭園を備えた御殿であった。
明治時代以降、これらの御殿や櫓、門などはことごとく撤去され、陸軍の施設が整備された。一方で、失われた建物を復興しようとする計画も進められ、昭和13年(1938)には、今の巨大な大手門が新たに整備された。
三の丸広場の中央や、周囲の通路の表面にグレーの細い石がはめ込まれ、線が示されている。これらは、今は失われた江戸時代の門や道の姿をイメージできるよう、発掘調査や文献史料を基にそれぞれの位置に遺構表示したものである。 |
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西大柱(上左画像)、東大柱(上右画像) |
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石垣 |
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お堀り(内堀)巡りの舟が通りかかる。和船の手こぎ舟でゆっくり進んでいく。大坂城などにもこうしたお堀巡りの船があるが、こちらは石垣を見るエンジン付きの観光船だ。動力船は効率的だが、手こぎ舟の方が情緒が感じられる。 |
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天守閣からの景観
姫路市街は、城下町を基礎に発展した。現在でも一部の町名に、塩町や白銀町。魚町、紺屋町のように江戸時代の町名が残っている。
近代になると鉄道が敷設されたが、総構(外堀)を超えて城下町に入ることができなかった。播但線は外堀の東に、山陽本線は外堀の南に敷設された。そのためJR姫路駅は旧城下町の南端に、京口駅は東端に設置された。南から北上する山陽電車が山陽姫路駅の手前で90度東に向きを変えるのは、不要となった総構の堀と土塁を利用して線路と駅舎を敷設したためである。また、中堀の南部は埋め立てられて、国道2号線になった。 |