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原城は、明応5年(1496)領主有馬貴純(8代目)が築城したものといわれ、別名「日暮城」と呼ばれている。城は、県下最大の平山城で周囲3q、41万uの規模をもち、有明海に面して南東に突出した岬を利用した要害である。
城構えは本丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで構成されている。
慶長19年(1614)、島原藩主有馬直純(14代目)は日向国県城(宮崎県)に転封され、元和2年(1616)松倉重政が大和五条(奈良県)から入部した。松倉氏は一国一城令により原城を廃城とし、元和4年(1618)からの島原城(森岳城)の築城にあたり、構築用の石材として、この城の石垣等を運んだものとみられている。
松倉氏の藩政は、領民へ苛酷な賦役と重税を課し、キリシタン弾圧など厳しく行ったため、寛永14年(1637)10月25日に天草四郎時貞を盟主として、「島原の乱」が起こった。原城は、同年12月3日から寛永15年2月28日まで、領民(天草の領民を含む)約3万7千人(2万7千人ともいわれる)が88日間たてこもった「島原の乱」の終焉の地である。 |
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桜咲く原城跡の景観。 |
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<天草四郎>
小西行長の家臣、益田甚兵衛好次の子で、本名益田四郎時貞といい洗礼名はジェロニモとかフランシスコなどといわれている。比較的恵まれた幼少時代を送り、教養も高かったといわれ、また長崎へ行って勉強したとあるが、詳細は不明です。
島原の乱に際し、若干15歳という若さで一揆軍の総大将として幕府軍と対立した。一揆軍は88日間この原城に籠城したが、圧倒的な幕府軍の総攻撃により終結した。四郎はこの本丸で首を切られ、長崎でさらし首にされた。
この墓碑は、西有家町にある民家の石垣の中にあったものをこの場所に移したものです。 |
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<櫓台石垣>
島原の乱後の幕府による現地処理で、徹底的に破壊され埋め込まれた石垣張り出し部分です。この場所は、築城当時天守閣相当の重層の櫓があったと推定され、口之津、天草方面を見渡せる絶好の場所である。
島原の乱では、幕府軍は石垣をよじ登ろうとし、一揆軍は塀の上から石などを投げ落とし必死で防戦した。 |
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<石垣内隅部>
石垣の上部分を取り崩し、その石や裏込め石を投げ込み埋められたいた。埋められていた石の他に大量の瓦も出土した。瓦の出土は、乱当時何らかの建物があったことを示唆するものであり、廃城であったという定説を見直す大きな資料といえる。
<空濠>(からぼり)
この低地は、島原の乱の時に防衛のため蓮池と通じ、本丸を孤立した「島」とするため築かれた。
寛永15年(1638)2月21日の夜襲軍四千人は、食料・武器等の奪取のため、ここに集結し、黒田軍・鍋島軍等を襲撃したが失敗に終わった。
籠城の間は、竹や木で柱をたて、「カヤ」でその上を覆い、非戦闘員(老若男女)を収容していたところです。 |
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<本丸虎口跡>
ここは、本丸北側の虎口空間帯に設けてある最も本丸寄りの虎口(出入口)で、島原の乱後、徹底的に壊され埋め込まれていた所です。
調査により、埋め込まれた築石やグリ石と共に大量の瓦や人骨が出土した。また、門柱礎石や虎口床面に玉砂利も検出し、ここに瓦葺の門(櫓門)があったと思われる。
この門は他の門とは違う本丸正面の門として、特に見栄と格式を重視したことがうかがえるとともに、厳重な防御力を備えたものだった。
<ホネカミ地蔵>
寛永15年(1638)2月28日、島原の乱は終わりを告げた。
ホネカミ地蔵は、明和3年(1766)7月15日有馬村願心寺の注誉上人が、この戦乱で斃れた人々の骨を敵、味方の区別なく拾い、霊を慰めた地蔵尊塔である。
八波則吉先生は、「骨かみ地蔵に花あげろ、3万人も死んだげな、小さな子供も居たろうに、骨かみ地蔵に花あげろ」と、うたっている。
「ホネカミ」とは、「骨をかみしめる」の意味で、その事から「自分自身のものにする」、更に「人々を済度する(助ける、救う)」と、理解すべきだと言われている。 |
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原城は、戦国時代の有馬氏の重要な城であり、1637(寛永14)年に勃発した島原・天草一揆の舞台となった城である。
城は、海岸に突き出した丘に築かれ、本丸、二ノ丸、三ノ丸、天草丸、鳩山出丸などから構成されている。周囲は約4km、東は有明海、西と北は一部をのぞいて低湿地に囲まれた天然の要害であった。
本丸は石垣で囲まれ出入口は桝形となり、織田信長や豊臣秀吉の時代に完成された石積み技術が用いられ、近世城郭の特徴をもった。その特徴は、高い石垣、建物に瓦を使用、建物を礎石上に備えていた点である。一方、二ノ丸、三ノ丸は自然の地形を活かした土づくりであった。
イエズス会宣教師の報告書のなかにも記述があり、文禄・慶長の役後に有馬晴信が居住している日野江城よりも一層適地にして、堅固で防御できるような新しい城を築城中であるとの報告が見られる。
原城の工事は、1599(慶長4)年にはじまり、1604(慶長9)年に完成したとされる。城内には晴信の屋敷のほか、家臣の屋敷、弾薬や食糧を蓄える三層の櫓があった。1614(慶長19)年に晴信の子、直純は日向国臼杵郡(宮崎県延岡市)へ転封された後、翌年に発令された一国一城令によって、廃城となった。
1992(平成4)年から実施している発掘調査によって、本丸地区から多くの遺構・遺物が出土している。特に、十字架、メダイ、ロザリオの珠などのキリシタン関係遺物は、一揆にまつわる資料である。また、一揆後の幕府による現地処理で、壊され埋め込まれた出入口や櫓台石垣、本丸の正面玄関に相当する出入口などが検出され、原城築城時の遺構や「島原・天草一揆」に対する幕府の対応を示す資料を発見した。
1938(昭和13)年5月30日、国指定史跡となる。
痛ましき 原の古城に 来て見れば ひともと咲けり 白百合の花 |
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