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<犬居城址概要>
犬居城は、領主・天野氏の居城だったもので行者山(250m)の頂きに、東西600m、南北650mに遺構が広がる。県内でも代表的な中世城館跡であり、静岡県史跡に指定されている貴重な文化財です。断崖絶壁で険阻となっている南側に対し、北側と西側は比較的穏やかで攻撃を受けやすい地勢を考慮して西側から東側にかけて物見曲輪、本曲輪、東曲輪など配置されており、今でも空堀りや堀切等の遺構が確認できる。
行者山の頂きには、役行者像や望楼(展望台)が建っている。望楼からは犬居地区の景観が一望できる。(下の画像と動画) |
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<犬居城主・天野氏>
犬居城・居城主である天野氏は、承久の乱(1221)の後、山香庄に地頭として入り、以後犬居も地を中心に、北遠地方を代表する在地領主となり、鎌倉時代には、幕府の御家人として活躍、南北朝時代には、一族が北朝・南朝と分裂し争いがおこり、北朝方についた一族が後に勢力を大きくし、室町時代から戦国時代にかけて国人領主に成長するまでに至る。
戦国時代には、今川氏の配下にはいり、今川義元の忠実な家臣として、北遠の要として位置づけられていた。しかし、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、本格的な徳川家康の遠江侵攻が始まり今川氏の手を離れ徳川に属することになるが、武田信玄の領国美濃と境を接していることもあり、信玄からの圧力と巧みな勧降工作により信玄に寝返ってしまう。これに激怒した徳川家康は犬居城を2回攻撃し、1度は徳川軍を後退させた天野氏だったが、2回目は守りきれず、甲斐に落ち、北遠の地には戻ってくることはない、という運命をたどる。 |
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<犬居城主天野氏之墓地>
犬居城主天野氏代々の墓地である。初代天野経顕以来の天野一党の墓碑16基が、今も往時を偲ばせている。
秋葉山瑞雲院は、天正年間、徳川家康の犬居城攻撃の際に兵火に遭い、堂宇ことごとく焼失して以後、現在地に再建されたものであるが、以前は、今の浜松市立犬居幼稚園のある敷地内にあった。
天野氏代々の墓地も、かつてその境内であった会下山の中腹に祀られていたが、昭和29年(1954)、犬居小学校改築工事に伴う敷地造成のため現在地に移され、翌年、当時の犬居町によって現在見られる形に修復された。(瑞雲院にて) |
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<犬居城の遠景>
犬居城は、承久の乱(1221)の戦功により、山香庄犬居郷の地頭職を与えられた天野氏が築城した北遠(遠江の北部地方)を代表する中世の山城です。
天正4年(1576)、徳川家康の攻撃を受け、敗れて甲斐(山梨県)へ去るまでの約300年間、その居城として支配の拠点だった。
<犬居城の縄張り>
現在の縄張りは、天正期(16世紀後半)の姿を今に伝えていると考えられている。
元亀年間(1570〜1572)、甲斐の武田氏の支援をて、犬居城の大改修が行われたと言われているが、本城の西半分は旧来の形態をよく残している。
連続する郭や馬出と外方の横堀、土橋・縦堀の配置などに、武田氏の築城法を見ることができる。(浜松市春野歴史民俗資料館にて) |
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気田川から見た犬居城跡の遠景。画像中央に見えるのが犬居城跡に立つ望楼(展望台)です。 |