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<井伊城跡と城山>
井伊家の居城であった井伊城はこの城山(掲載画像)の南麓にあり、本丸、二の丸、三の丸に分かれていた。延元元年(1337)遠江守井伊道政が後醍醐天皇の皇子宗良親王をお迎えしてより、元中2年(1385)8月10日宗良親王がこの地で薨去し給うまで約50年間、京都と鎌倉の中間である井伊城を本拠として、駿河、甲斐、信濃、越中、越後、上野の国々を転戦された。 |
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平時にこの城山の御所の丸に居られ
夕暮れは湊もそことしらすげの 入海かけてかすむ松原
はるばると朝みつしおの湊船 こぎ出るかたは猶かすみつつ
の御歌がのこされている。
この城山の一段高い所が御所丸跡で井の宮石陵があり、宮入御表門跡、からめ手門跡等がある。又東山麓には宗良親王を祭る二宮神社、親王の御念持仏を祭る足切観音堂がある。
<井伊氏居館跡>
江戸幕府の柱石の大名中、数少ない大老職の家柄と仰がれた彦根藩主井伊氏発祥の地は、引佐の井伊郷で、この場所が屋形の跡です。(画像の城山とは違う所です)井伊氏の元祖共保公は、藤原鎌足5世の裔、閑院左大臣冬嗣の男良門の流れを掬む藤原備中守共資を父とし、共資が一條天皇の正暦年中、遠江の廳に来住した時、井伊郷の荘司三宅篤茂の女を娉い、寛弘7年正月篤茂の館に於いて生誕したと謂われている。
以来日本八介の一、遠江の井伊ノ介と謳われ、南北朝、東海に於ける南朝の拠点として、後醍醐天皇の皇子宗良親王を迎え、ここ城山に御所を構え、東北三嶽山頂に山城を営み、激烈な戦火を繰り広げた。
以後戦運南朝に利あらず、戦国の世には今川氏の為に悲運を繰返し、直政公出生の翌年、永禄5年には幼主直政公も此處を立退き、遂に主無き館となった。
嘉永5年6月、彦根藩主、時の大老井伊直弼公は親しく此の館跡を訪れ、境内にある守護社井伊大明神に詣で旁附近の史跡を巡覧した事が伝えられている。(説明版) |
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