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浜松城は、徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(1570)に入城し、17年間(46歳まで)在城した。自然石を上下に組み合わせて積む野面(のづら)積みの石垣で戦国時代の城の面影を残している。この城での最大の危機は、「三方原の合戦」である。家康が、生涯に一度の敗戦を味わった戦いであった。
三方原の合戦は、武田信玄と徳川・織田連合軍が浜松市郊外の三方ヶ原台地で激突したもので、3万の武田軍に三方が原に誘い出された徳川軍1万は、大敗を喫し敗走を重ねた。家康は鎧を脱ぎ捨て、浜松城に逃げ帰った。この時、重臣の酒井忠次は追手門を開き、松明を焚き天守で大太鼓を打ち鳴らした。このため、武田勢は何か奇計があるかもしれないと思いこみ、追撃を止めて引き上げていった。この時、城内には負傷兵しかおらず、家康は九死に一生を得たのである。この時、家康は自分の顔を描かせ、生涯、自戒の糧にした。この絵は有名な絵である。
浜松城は、明治維新までに25代の城主が在城した。水野忠邦を始として譜代大名が居城し、幕府の要職につくことが多かったので「出世城」の名で呼ばれている。 |
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<天守台>
浜松城の天守台は、一辺21mのややいびつな四角形をしていて、西側に八幡台と呼ばれる突出部が付いている。また東側には、付櫓と呼ばれる張り出し部分があり、現在は復興天守閣への入口として利用されている。
浜松城の天守は第二代城主堀尾吉春の在城期(1590頃)に築かれた説が有力だが、17世紀の絵図には天守が描かれていない事から、江戸時代前期には天守が失われていたと考えられている。昭和33年(1958)に作られた現在の復興天守閣は、天守台の大きさと比べると小さいものである。
かつての浜松城は、築城時期等から大きな屋根を持つ下層部の上に小さな望楼が載せられる「望楼型」であった説が有力である。その規模は天守台の大きさから推測すると現在よりも一回り大きい三重四階で、巨大な天守だったと考えられる。 |
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<天守門>
天守曲輪の入口に位置する天守門は、城門の上に櫓が載る、櫓門と呼ばれる建物です。上層の櫓は両側の石垣に架け渡され、左右の土塁上から直接建物内に出入りできる。櫓は、戦略的に重要な場所に配置されており、戦闘時に重要な防御拠点兼見張台の役割を果たした。 |
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<門脇の鏡石>
天守門の石垣正面は、左右とも隅に巨石が用いられている。この巨石を鏡石と呼ぶことがある。かつて城の壮大さや城主の権力を見せるため、門の両側や周辺に意図的に大きな石を用いたと言われており、彦根城太鼓門櫓や、岡山城本丸、松本城太鼓門の石垣等に類例がある。
巨石を用いた部分は算木積(さんぎづみ:石垣の角部を強固にするために、長い石材の長辺と短辺を左右交互に振り分けて積む積み方)になっていない。また、横長石も不揃いで、算木積とはいえない部分もある。 |
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<本丸>
天守閣が城の象徴なら、本丸は城の本拠地である。普通の城は天守閣をとり囲むように本丸が配置されているが、浜松城の場合は天守閣の東約17m下につくられた。
周囲を石垣で囲み、南に正門である鉄門があった。北には富士見櫓、南東のすみに二層の菱櫓を置いた。本丸内の建物についての詳しいことはわからない。
<天守曲輪>
浜松城の天守台周辺には、本丸とは別に天守曲輪と呼ばれる区画が築かれている。この天守曲輪の出入口として東に大手である天守門、西に搦手(からめて)の埋門を配置している。
浜松城の天守曲輪は東西56m、南北68mで、石垣の折れ曲がる角度が様々で、複雑な多角形をしていることが特徴である。これは自然の山の形を反映した結果と考えられ、石垣造りの曲輪としてが古相を留めた形といえる。また、曲輪の外周には土塁が巡らされていたと考えられる。
天守曲輪は掛川城、和歌山城等にも見られるが、類例は決して多くない。掛川城は浜松城第二代城主堀尾吉春の同輩である山内一豊が、和歌山城は豊臣秀長がそれぞれ築いており、豊臣秀吉と深く関わる遺構といえる。
<作左曲輪(さくざくるわ)>
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」と長篠での陣中より妻にあてた手紙で有名になった本多作左衛門重次(1529〜1596)が住んでいたところ。重次は、徳川家康の祖父清康の代より仕えた老臣です。家康の三河経営では、高力清長氏、天野康景氏とともに三奉行の一人として活躍し、「鬼作左」とも呼ばれていた。元亀3年(1572)12月の三方ヶ原の戦いにも家康に従い、手柄をたてた。
作左曲輪のいわれについては、次のように伝えられている。
三方ヶ原の戦いのとき、家康は重次を呼んで、もし城が武田軍の重囲におちいり長期戦となったらどうしようかと兵糧について尋ねた。重次は、米は十分貯蔵してあると返事をした。家康は非常に喜んでその時の米倉の位置へ重次の屋敷をつくることを許した。天正7年(1579)には、この屋敷に城さくを設け、城の搦(から)め手とし「作左曲輪」と呼んだという。
作左曲輪は、名残(なごり)の組屋敷へつづき、永く浜松城の西北の護りとなっていた。現在、この付近には浜松城公園、浜松市立中部中学校があり、今でも「作左」「作左山」と言われ人々に親しまれている。
<二ノ丸>
本丸の東に位置して土地も一段と低い。ここは城主の家と浜松藩の政治をおこなう政庁があり、江戸時代を通じて藩の政治の中心であった。広さはおよそ5000u(1500坪)、主な建物は表御殿(藩の政治をする所)と奥御殿(城主の家)であり、多くの部屋があった。現在は浜松市役所と浜松市立元城小学校体育館が建てられている。 |
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<徳川家康三方ヶ原戦役画像>(複製)
家康の経験した負け戦とは31歳に当たる元亀3年(1572)12月、三方ヶ原で起こった武田信玄との合戦である。家康は後年、この敗戦を肝に銘ずるためにその姿を描かせ、慢心の自戒として生涯座右を離さなかったと伝えられる。
威厳のある堂々とした権現像とは異なり、憔悴し切った家康の表情が巧みに描かれており、別名「顰(しかみ)像」ともよばれている。
<立体しかみ像>
徳川家康は、三方ヶ原の戦いで敗戦した苦渋の姿を肖像画に描かせ、生涯に渡り自分に対する戒めのため、座右から離さなかったと伝えられている。肖像画の正式名称は「徳川家康三方ヶ原戦役画像」といい、通称はその形相から「しかみ像」と呼ばれている。
しかみ像は家康の死後、尾張徳川家に伝わり、現在は名古屋市の徳川美術館に所蔵されている。今回(徳川家康公四百年祭)、徳川黎明会様のご厚意により画像をもとに立体制作した。ウレタン樹脂製。高さ130p。
<井戸>
このこの井戸は、銀明水と呼ばれていたという。
浜松城には、天守台に1つ、天守曲輪の埋門のそばに1つ、本丸に1つ、二の丸に3つ、作左曲輪に4つ、計10本の井戸があったという。天守台の井戸は、再建の時に残し、今は天守閣の地下室にある。直径1.3m、深さは現在1mほどになっており水はない。 |
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浜松城天守閣からの眺望 |
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<三方ヶ原合戦、徳川軍・武田軍の陣形>
徳川勢は浜松城の玄黙口より出陣した。家康は籠城戦法をやめ、野戦で信玄の軍と戦うことを決意したのである。
三方ヶ原に着いた徳川軍は、直ちに鶴翼の陣形に展開した。小勢にもかかわらず、武田軍を包囲しようとする気構えである。これに対し、武田軍は魚鱗の陣形をとった。「人」の字のように、先手を敵に接近させ、先手が破れ疲れると、二番手、三番手が攻める陣立てである。戦闘開始は「甲陽軍艦」では申(さる)の刻、今の午後4時頃ということになる。薄暮からやがて真っ暗闇での戦いとなった。
徳川軍は午後6時頃には総退却となった。家康は、「まん丸に成(なり)て除(のか)せ給(たま)ふ」状態であった。(三河物語) |