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あまり知られていない四稜郭。訪れる人もほとんどなく閑散としていましたが、史跡として、大切に保存されていました。草を刈り整備する人たちだけ。五稜郭の賑わいが嘘のような静かさが漂っていました。四稜郭は、蝶が羽を広げた形、立っただけでは全貌は分かりません。
明治2年(1869)3月に榎本武揚らが北の防備のために築いた土塁作りの城郭。五稜郭公園の北側約3kmの場所にあり、東西104m、南北66m、4つの稜をもつ蝶のような形をしている。同年5月、官軍と旧幕府軍がここで戦ったという歴史をもち、現在は復元された土塁だけが残り、一帯は公園として整備されている。大規模な五稜郭に比べて規模ははるかに小さく、あまり知られていないが、静かな公園の緑の芝生を散策しながら歴史に想いを馳せてみるのもいい。
<史跡 四稜郭>(説明文より引用)
明治2年(1869)春、五稜郭にたてこもる旧幕府脱走軍は新政府軍の攻撃に備えて各地に防御陣地を築いたが、五稜郭の背後を固めるため、その北方約3qの緩斜面台地にも洋式の台場を急造した。これが四稜郭である。
四稜郭は、蝶が羽を広げたような形の稜堡で、周囲に土塁と空壕をめぐらし、郭内(面積約2,300u)には、四隅に砲座を設けたが、建物は造らなかった。
なお、地元の言い伝えによると、旧幕府脱走軍は士卒約200名と付近の村民(赤川・神山・鍛治村)約100名を動員して、昼夜兼行で数日のうちにこの四稜郭を完成させたといわれている。
明治2年5月11日、新政府軍は函館総攻撃を開始した。同日未明、新政府軍の岡山藩・徳山藩の藩兵は赤川村を出発し、四稜郭の攻撃を開始した。松岡四郎次郎率いる旧幕府脱走軍は四稜郭の防御に努めたが、新政府軍には福山藩兵も加わり、さらに長州藩兵が四稜郭と五稜郭の間に位置する権現台場を占領したため、退路を断たれることを恐れた旧幕府脱走軍は五稜郭へと敗走した。
5月18日には、五稜郭が開城され、榎本武揚以下が降伏して函館戦争は終わった。(F.S さんより) |
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