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<特別史跡五稜郭跡>
五稜郭跡は、幕末の箱館開港に伴い設置された箱館奉行所の防御施設で、箱館奉行配下の諸術調所教授役で蘭学者の武田斐三郎成章(たけだあやさぶろうなりあき)により、中世ヨーロッパで発達した城塞都市を参考に設計された西洋式土塁です。稜堡(りょうほ)と呼ばれる5つの突角が星形の五角形状に土塁がめぐっていることから五稜郭と呼ばれ、郭内には日本伝統建築の箱館奉行所庁舎とその付属建物20数棟が建てられた。
安政4年に築造を開始して7年後の元治元年に竣工、同年6月に奉行所が移転して蝦夷地における政治的中心地となった。
その後、明治維新により明治新政府の役所となったが、明治元年10月に榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が占拠、翌明治2年5月に終結する箱館戦争の舞台となった。箱館戦争後は、明治4年に開拓使により郭内建物のほとんどが解体され、大正時代以降は公園として開放されている。
五稜郭跡は、築造時の形態がよく残っていて日本城郭史上重要であるとともに、幕末期の洋学採用の一端を示すものとして学術上きわめて価値が高いことから、北海道で唯一の国の特別史跡に指定されている。
<函館奉行所>
函館奉行所は、幕末の函館開港により設置された江戸幕府の役所で、奉行所の防御施設として築造されたのが五稜郭です。安政4年(1857)に着工して7年後の元治元年(1864)に完成し、蝦夷地の政治的中心となった。
明治維新の際には戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争の舞台となり、明治4年(1871)に奉行所庁舎は解体された。それから140年の時を経て、平成22年(2010)に函館奉行所が復元された。 |
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箱館奉行所は、公務を執る役所部分と奥向と呼ばれる奉行の役宅部分に分かれていて、その総面積は約3,000uとなっている。このうちの約3分の1の範囲(約1,000u)は建物を復元し、残りの約2,000u分は地面に部屋割を区画した遺構平面表示により奉行所建物の範囲を表示した。いずれも発掘調査により発見された柱の礎石などの建物遺構の真上に復元している。役所部分は、玄関・大広間などの儀式の部屋、裁判などを行う部屋、奉行とその部下の仕事部屋、炊事部屋などが、奥向には奉行とその家族が住むための部屋などがあった。また、奉行所を囲む板塀や木柵、井戸などの位置も表示している。(遺構平面表示より) |
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<特別史跡 五稜郭跡>
五稜郭は、安政4年(1854)に結ばれた日米和親条約(神奈川条約)のよって開港された箱館をはじめとする北辺の防備のため、江戸幕府の手により、安政4年(1857年)4月に着工され、元治元年(1864)に完成した西洋式の城であり、慶応3年(1867)10月の大政奉還後、新政府に移管された。
明治元年(1868)におこった戌辰戦争では旧幕府脱走軍榎本武場らによって短期間占領されたが、新政府軍に平定されてから開拓使、陸軍省の所管を経て、大正3年(1914)以降公園として市民に開放されている。
城の形が五稜形をしているのは、守備の際に死角をなくすためであり、武田斐三郎の指導のもとに、西洋式の築城法をとりいれて造られたものである。 |
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<箱館戦争と特別史跡五稜郭跡>
江戸湾から軍艦8隻と共に脱走した榎本武場率いる旧幕府脱走軍が箱根に入り、五稜郭を占領したのは、明治元年(1868)10月。新政府軍との戦いに敗れ、降伏したのはわずか7ヶ月のことでした。五稜郭は新政府軍に明け渡れ、戌辰戦争最後の戦いとなった箱根戦争の終結とともに、長い間続いた封建制度がここで終わりを告げた。日本の新しい時代が始まったのです。
<半月堡>
半月堡は、西洋式土塁に特徴的な三角形状の出塁で、馬出塁ともいう。郭内への出入口を防御するために設置されている。当初の設計では各稜堡間の5か所に配置する予定だったが、工事規模の縮小から、実際には正面の1か所だけに造られた。北側中央部の土坂が開口部となっているほかは、刎(は)ね出しのある石垣で囲まれている。
*刎ね出し:武者返し・忍び返しとも呼ばれ、上から2段目の石が迫り出して積まれているため、外部からの侵入を防ぐ構造になっている。
<土塁・石垣>
五稜郭の土塁は、堀割からの揚げ土を積んだもので、土を層状に突き固める版築(はんちく)工法により造られている。
郭内への出入口となる3か所の本塁は、一部が石垣造りとなっている。特に正面の出入口となる南西側の本塁石垣は、他の場所の石垣よりも高く築かれていて、上部には「刎ね出し」とよばれる防御のための迫り出しがある。
石垣には函館山麓の立待岬から切り出した安山岩や五稜郭北側の山の石が使われている。 |
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<クルップ砲>(前装式施条砲)
昭和7年(1932)七重浜埋め立て工事の際に発見。旧幕府脱走軍 軍艦「蟠龍」に撃沈された新政府軍艦「朝陽」の艦載砲と思われる。
・全長2m85p ・重量約1,000kg ・ドイツクルップ社製造 ・射程距離約3,000m(推定)
<ブラッケリー砲>(前装式施条砲)
昭和36年(1961)、函館市内豊川町より発見。旧幕府脱走軍が湾内攻撃のため、築島台場に設置したものと思わる。
・全長2m55p ・重量2,500kg ・イギリスオードナンス社製造 ・射程距離約1,000m(推定) |
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<武田斐三郎>
たけだあやさぶろう(1827〜1880)伊予大洲(愛媛)で出生。大阪の適塾や佐久間象山のもとで学んだ蘭学者。箱館五稜郭の設計をする。箱館奉行所の学問所(諸術調所)でオランダ語、英語を教える。
<土方歳三>
天保6年〜明治2年(1835〜1869)。武蔵国(東京都)生。近藤勇らとともに新撰組を結成。仙台で榎本等と合流し、脱走軍では陸軍奉行並となる。明治2年5月11日箱館の一本木関門(現若松町)付近で戦死した。
<榎本武場>
天保7年〜明治41年(1836〜1908)。江戸(東京都)生。オランダ留学後、幕府海軍副総裁。慶応4年(1868)旧幕府脱走軍を率いて品川沖を出発し、五稜郭を占領した。 |