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萩城は関ヶ原の役後、毛利輝元が慶長9年(1604)築城に着手し、4年後の同13年(1608)に至って完成したものである。。
萩市内の西北隅、指月山(標高143m)の麓に位置し山名をとって指月城とも呼ばれた。山麓の平城と頂上の山城とを併せた平山城である。当時輝元は隠居していたがその子、初代藩主秀就が幼少のため、築城後も政務を執っていた。
以後代を重ねること、13代敬親に至って幕末多端な国事を処理するに不便なため文久3年(1863)4月山口に移った。
ついで明治7年(1874)建物の全てが解体された。本丸には高さ14、5mの5層の天守閣があったが、今はその台座のみ残っている。周囲には石塁を築き内部には藩主の居館ならびに藩役所と附属建物があった。
この城は259年間防長両国政治の中心であり明治維新に大きな役割を果たした重要拠点でもあった。(国指定史跡) |
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<萩城天守閣>
萩城は、関ヶ原の役に破れた毛利輝元が防長二州・36万石の居城として、慶長9年(1604)工を起こし同13年(1608)完工した。桃山初期の形式を示す。白亜五層の天守閣は高さ8間(14.4m)初層は東西11間(19.8m)南北9間(16.2m)、最上層は東西3間半(6.3m)南北3間(5.4m)である。
初層は、石垣全面にわたって半間を張り出し俯射装置になっていた。明治7年(1874)解体まで270年間毛利氏が13代にわたり萩城の象徴として偉容を誇っていた。 |
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<毛利輝元>
毛利輝元は、天文22年(1553)毛利隆元の長男として安芸郡吉田郡山城(現在、広島県安芸高田市)に生まれた。戦国時代、中国地方の覇者となった毛利元就の孫にあたる。永禄6年(1563)父隆元の死去に伴い家督を継ぎ、祖父元就の手によって養育された。
織田信長や豊臣秀吉と覇を競い、中国地方8カ国112万石を領有する大大名に成長し、天正17年(1589)広島に居城を築いた。
豊臣政権下では五大老の一人となり権勢を誇ったが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで敗れ、周防・長門2ヶ国36万9千石に削封された。
慶長9年(1604)居城を萩に選定し、同年11月11日、萩城に入城した。萩開府にあたって、城下町の建設を推し進めると共に、萩藩経営の安定に腐心した。
寛永2年(1625)73才で没し、萩城三の丸(堀内)の天樹院に葬られた。 |
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<志都岐山神社>
志都岐山神社(しずきやま)は旧県社で、祭神は毛利元就、毛利隆元、毛利輝元、毛利敬親、毛利元徳です。明治11年(1878)、萩町及び付近の有志が発起し、広く毛利家にゆかりのあるものの賛同を得て、萩城跡本丸内に山口の豊栄(祭神毛利元就)、野田(祭神毛利敬親)両神社の遥拝所を創建した。
翌明治12年(1879)、この遥拝所を山口にある両神社の分社とし、指月神社と称した。明治15年(1882)県社に列せられ、志都岐山神社と改められた。明治33年(1900)、祭神を、元就、隆元、輝元、敬親、元徳の5柱とし、初代から12代までの萩藩主を配祀した。 |
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解体前の萩城の写真。この写真は明治初期萩の小野為八が撮影したものといわれる。東萩駅前には萩城の模型(1/6)がある。 |