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鎌倉時代の建仁元年(1201)、幕府の執事二階堂山城守行政が軍事目的のためにここに初めて砦を築いたと伝えられているが、稲葉山城として日本史に大きく登場してくるのは斎藤道三以後のことです。斎藤道三は天文8年(1539)2月に稲葉山城を修築して入城し、続いて子の義龍、孫の龍興が城主となった。
永禄10年(1567)織田信長は斎藤龍興と戦って稲葉山城を落とし、9月新城主として入城した。信長は稲葉山城を岐阜城と改め、楽市場を保護し、「天下布武」の朱印を用いるなど天下統一の本拠地とした。永禄12年に宣教師ルイス・フロイスが岐阜城を訪れ、その壮麗さに驚いたことを書簡に記して本国ポルトガルへ送り、西洋にまで岐阜城のことが知られるようになった。
その後、織田信忠・神戸信孝・池田元助・池田輝政・豊臣秀勝が岐阜城主となったが、慶長5年(1600)8月23日岐阜城主織田秀信は西軍の豊臣方に味方して東軍の徳川方と戦い、福島正則・池田輝政に攻められて開城した。慶長6年、岐阜城は廃城となり天守閣・櫓などは取り崩されて加納城に移築され、江戸時代には金華山頂に天守閣が建てられることはなかった。
明治43年(1910)木造の模擬城が建てられたが、昭和18年(1943)焼失した。その後、観光岐阜のシンボルとして、また、安土桃山時代の華麗な城郭を再現したいという岐阜市民の熱意と浄財により昭和31年に現在の3層4階の天守閣を再建した。平成9年(1997)大改修工事を行い、織田信長の頃の壮麗な天守閣の姿を再現した。(説明板より引用)
<木下藤吉郎と千成瓢箪>(せんなりびょうたん)
永禄10年(1567)8月14日、木下藤吉郎は蜂須賀小六や山麓の猟師堀尾茂助など僅か7名を従えて、岩戸口から稲葉山城のここまで潜入し、薪小屋に火を放って手柄をたてたと伝えられている。この時、藤吉郎は城兵を倒した鎗先(やりさき)に腰から下げていた瓢箪を結び付け、鎗を振り回しながら大音声で勝鬨(かちどき)をあげたという。以来、千成瓢箪発祥の地とされている。 |
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○岐阜城の主な歴代城主
<斎藤道三>(1494〜1556)
戦国大名。名は利政、のち秀龍。晩年に入道して道三と号す。美濃国守護土岐氏の老臣斎藤利安の家臣西村家を父とともに奪い取り、次いで享禄3年(1530)には利安を殺害して新九郎利政と名乗る。道三は天文7年(1538)守護代斎藤家を奪い取り、天文11年に守護土岐頼芸を追い、美濃国を横領して稲葉山城を修築して入城する。弘治2年(1556)4月20日、道三は長男の義龍と長良川で戦い敗死する。
<斎藤義龍>(1527〜1561)
斎藤道三の子。母三芳野は美濃国守護土岐頼芸の側室で、義龍を宿して道三に嫁して後に生んだと言われる。はじめ新九郎高政と称する。長じて父道三と不仲になり、弘治元年(1555)叔父長井道利と謀って道三に背き、翌年長良川で戦って父を討ち取り、美濃国を制圧して稲葉山城主となる。永禄2年(1559)から織田信長と争ったが、病死する。
<斎藤龍興>(1548〜1573)
斎藤道三の孫。父義龍の後をうけて稲葉山城主となる。尾張国の織田信長と連戦し、次第に利を失い永禄10年(1567)稲葉山城を奪われる。越前国の朝倉氏に身を寄せたが、朝倉氏の滅亡と運命を共にする。
<織田信長>(1534〜1582)
織田信秀の子。幼名吉法師。天文15年(1546)元服して信長を名乗る。父の死後、尾張半国を統一する。永禄3年(1560)駿河国の今川義元を桶狭間に迎え撃って敗死させ、三河国の徳川家康と同盟を結ぶ。その後、尾張国を統一して美濃に進出し、永禄10年に斎藤龍興を破り、清洲城から稲葉山城に移る。信長は楽市楽座を保護し、稲葉山を金華山に、井ノ口を岐阜と改め「天下布武」の朱印を用いるなど、岐阜城を天下統一の本拠地とする。天文10年(1582)明智光秀の謀反により京都本能寺で自害する。
<織田信忠>(1557〜1582)
織田信長の長男。信長に伴って各地に転戦する。天正4年(1576)信長が岐阜城から安土城に移ると、信忠が岐阜城主となる。天正10年、甲斐国に攻め入って武田勝頼を討ち滅ぼす。同年の本能寺の変に際して京都妙覚寺に籠もり、明智軍と奮戦の末に自刃する。
<神戸信孝>(1556〜1583)
織田信長の三男。伊勢国神戸氏の養子となる。天文10年(1582)本能寺の変後、羽柴秀吉とともに明智光秀を破って美濃国を領し岐阜城主となる。秀吉が柴田勝家と争うや信孝は勝家と結び、兄信雄・秀吉と抗争する。同11年勝家が敗死したので信雄に降り、尾張知多郡内海に逃れ「昔より 主をうつみの 野間なれば 報いを待てや 羽柴ちくぜん」の辞世を残して自害する。
<豊臣秀勝>(1569〜1592)
豊臣秀吉の姉の子で、秀吉の養子となる。丹波亀山城主・甲府城主を経て、天正19年(1591)3月岐阜城主となる。秀勝は翌文禄元年6月、兵3千人を率いて細川忠興とともに朝鮮半島へ出兵する。在陣3か月で戦地で病死する。
<織田秀信>(1580〜1605)
織田信忠の子で、信長の孫にあたる。岐阜城で生まれ、幼名を三法師という。天正10年(1582)本能寺の変直後、前田玄以は信忠の遺命により三法師を岐阜城から清洲城に移して守る。清洲会議の結果、信長の後継者として安土城に移ったが、天正12年岐阜城に戻る。文禄元年(1592)豊臣秀勝が陣歿したため秀信が岐阜城主となり、朝鮮半島へ出陣する。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦には、秀信は石田三成に味方して西軍に属したが、8月23日東軍の池田輝政・福島正則に攻められて開城する。合戦後、高野山に入り剃髪する。慶長10年高野山において没する。 |
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