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<下之橋御門>(しものはしごもん)
福岡城は、福岡藩初代藩主黒田長政によって、慶長6年(1601)から7年をかけて築かれた。城内への門は、堀に架かる3つの橋、上之橋(かみのはし)、下之橋(しものはし)、追廻橋(おいまわしばし)にそれぞれあり、このうち下之橋を渡って入る門がここ下之橋御門です。
現在の門は文化2年(1805)に建てられたが、明治時代に上層部を失い、長く一層のままであった。平成12年(2000)に不審火によって被災したため、復旧に向けた調査研究を行ない、同20年に二層櫓門として復原した。
門の上層部は、部材に残る痕跡・発掘調査成果・絵図・文献史料などにより、その規模、北側の下屋(げや)の様子、柱の立つ位置、外壁の漆喰壁などが明らかになった。また直接の資料を欠く部分は、上之橋御門(上の橋大手門)の古写真や本丸表御門(現・崇福寺山門)などを参考にした。
この復原は専門家で構成する「福岡城跡建造物等復原整備検討委員会」で検討されたものです。これとは異なった復原案も提案されたが、現段階でより蓋然性が高いと判断された本案を採用した。(県指定文化財 昭和31年4月3日指定) |
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<天守台跡>
歴代の福岡藩主も眺めたであろう天守台跡からは、福岡市内360度全方向のパノラマを楽しめる。江戸時代なら福岡城下を一望できたことでしょう。そして、もしも天守閣が存在していたとしたら、そこからはより一層爽快な眺めが得られたはず。この天守閣の有無については議論されているが、仮に存在したとすると、天守台の礎石や石垣の規模から5層の大天守閣が建っていたと推定され、東側に中天守、小天守が立ち並ぶ52万石の大藩にふさわしい偉容を誇ったに違いありません。 |
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<黒田如水隠居地>(三ノ丸御鷹屋敷)跡
黒田官兵衛孝高(如水)[1546〜1604]は、戦国時代の武将で、筑前黒田藩の藩祖とされる。はじめ赤松氏の一族で当時姫路の小寺氏に仕えたが、のちに羽柴秀吉に従い、竹中半兵衛とともに秀吉の軍師として重きをなし、中国、四国及び九州の平定の後はその軍功により豊前国六郡を封ぜられ、同地に中津城を築いた。
長子長政に家督を譲った後には剃髪して隠居し、如水円清と号した。如水の隠居後、関ガ原の役の功により、長政が筑前国十五郡(福岡県)を与えられ筑前黒田藩の初代藩主となって福岡城を築いた後は、如水もその晩年を福岡城で過ごした。
福岡黒田家に仕え、儒教・博物学者として著名な貝原益軒の書「筑前国続風土記」の中に、「城内のいぬゐ(北西)に小高き山あり。是又本丸より高かりしかば、山をならしてひきゝ(低い)岡とし、如水公の兎裘(ときゅう)の宅地(隠居地)とせらる。」という記述のある「三ノ丸御鷹(おたか)屋敷」は現在のここ「ボタン・シャクヤク園」にあった |
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<本丸>
本丸は、藩主が政務を行うとともに、住居としても使われた「本丸御殿」があり、天守台へと続く福岡城の中心部です。
天守台への入口となる「鉄御門跡(くろがねごもんあと)」が残っている、要衝の門にふさわしく、敵の侵入を防ぐため幅が狭くなっている。高く積まれた石垣の上に櫓や堀が張り巡らされ、上から攻撃できるようになっていた。この鉄御門跡の先には埋門跡(うめもんあと)があり、やはり狭い門となっている。
定説では福岡城の天守閣がもともと建設されなかったとされているが、近年では天守閣の存在をうかがわせる文章が発見され、「はじめは天守閣が建設されたが、後年取り壊されたのではないか」という説も説得力を増しており、「幻の福岡城天守閣」をめぐる議論が続けられている。 |
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<二の丸>
福岡城の二の丸は、大きく「二の丸」、「東二の丸」、「南二の丸」に分かれていた。現在は運動場(ラグビー場)になっている北側まで石垣があって、「二の丸御殿」が建っていたようだ。その南側は貯水池となる「水の手」であった。
「東二の丸」から扇坂を抜けると、現在は梅の名所として知られる「二の丸」へと続く。この扇坂の近辺に「お綱門(つなもん)」と呼ばれる門があった(扇坂御門か東御門か異なる門であるかは諸説あり)。柱に触れただけで熱病に冒されたり、夜中にうなされたりするといわれたその門には、恐ろしくも哀れな話が語り伝えられている。 |
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<多聞櫓>
多聞櫓 南丸(二の丸南郭)にある国指定重要文化財の多聞櫓は、江戸時代から城内に残っている数少ない建物のひとつです。二層の隅櫓とそれに連なる三十間の奥行をもつ平櫓からなります。高く積み上げられた石垣を土台に築かれ、「石落」が備えられていることから、いざというときの防御のための櫓と考えられている。
また、現在の多聞櫓は後世の改修を受けたものと考えられ、平櫓は嘉永6年(1853)から翌年にかけて建て替えられたものです。戦後、現在の西日本短期大学の学生寮として使われたこともあった。
なお、平櫓の内部は、一般に突き抜けの状態となっていることが多いなか、本櫓では、16の小部屋に別れています。この多聞櫓の内部は非公開となっているが、イベント時等に一般公開しているほか、桜の季節にはライトアップされ、幻想的な空間をつくりだしている。 |
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<祈念櫓>
この祈念櫓は本丸の北東隅に鬼門封じのために建立された二層の櫓で、棟札によって現在の建物は、万延元年(1860)年3月に起工し、同年10月に竣工したことが判明している。
その後、大正7年(1918)には本市内にある黒田家菩提寺の崇福寺が陸軍省から払い下げをうけ、その末寺である北九州市八幡東区の大正寺の境内に観音堂として移築された。その際の棟札によると大正9年に竣工している。さらに昭和58年(1983)から翌年にかけて再び福岡城の現在の位置に再移築がなされた。また、その間の昭和32年8月には「旧福岡城祈念櫓」として福岡県の有形文化財(建造物)に指定されている。
大正初期の移築前に撮影されたと推定される古写真と現在の建物を比較すると外観や規模が異なっており、大正寺への移築の際に大幅な改変を受けたものと推測される。旧状の櫓の壁は白漆喰で、二層目の窓は花頭窓であったことが写真から判明している。 |
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<(伝)潮見櫓>
福岡城に50近くあった櫓の一つです。大正初期に浜の町の黒田別邸に移築され、昭和31年(1956)に再移築された。潮見櫓の本来の位置は、現在の位置ではなく三の丸北西角であり、また、この建物は平成3年(1991)の調査の結果、潮見櫓ではなく、城内の別の櫓であると考えられている。
<名島門>
この門は、天正15年(1587)小早川隆景が多々良川口の名島の陵端に築いた名島城の脇門で、慶長年間(1596〜1614)黒田長政が居城を名島城から福岡城に移すとき、黒田24騎の一人である林掃部(はやしかもん)にさげ渡され、邸宅の門として使用されていたもので、「名島ひけ」と呼ばれた名島城の数少ない遺構の一つです。
明治の中ごろ、長崎に移築されそうになったのを、当時の代議士平岡浩太郎氏によって買い戻され、天神の自宅の門として使用されていたが、戦後富士ビルの建設に伴い、平岡浩氏(浩太郎氏の孫)によって現在地に移されたものです。 |
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<福岡城石垣>
福岡城はその別名として、舞鶴城のほか「石城」とも呼ばれている。これは、黒田24騎の一人で築城時に石垣普請奉行をつとめた野口佐助一成が石垣積みの名人であって、加藤清正をも唸らせた出来栄えであったことに由来するようです。
福岡城の築城にあたっては、それまでの居城であった名島城の材木や瓦などの資材を積極的に再利用しており、特に石垣に関しては、名島城のみではなく鴻臚館(こうろかん)跡や元寇防塁の石材も使用されているようです。また、福岡城内の石垣の積み方も様々で「石垣も表情」に違いがある。
江戸時代の記録等から築城後も、洪水などの災害や老朽化により、石垣や門や櫓等の破損がたびたびあり、絶え間なく修復し維持されてきたことがわかっている。
石城の名にふさわしく福岡城跡の各所に見事な石垣が残ってるが、三の丸から多聞櫓を見上げる景観は印象深く、高く精密に積み上げられた石垣と櫓の白壁の組み合わせが城郭建築の美を楽しませてくれる。 |
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<福岡城跡>
福岡城は、福岡藩初段藩主黒田長政が、慶長6年(1601)から7年の歳月をかけて築いた城です。城は東西に長い梯郭式の平山城で天守台を中心にして本丸、二の丸、東西の三の丸からなり、周囲を堀で囲む構造です。47の櫓を築いたが、そのうち多聞櫓、祈念櫓、(伝)潮見櫓は現在でも見ることができる。
築城の際、もともとの地名であった「福崎」を黒田家再興の地である「備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市付近)にちなんで「福岡」に改めており、これが城名・市名の由来となっている。
別名舞鶴城とも呼ばれる。昭和32年(1957)に国史跡に指定された。 |