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岩村城は別名を霧ヶ城といい、天然の峻険な地形を活用した要害堅固な山城で、海抜717mに位置し、全国の山城の中で最も高地にあり、日本三大山城の一つである。(三大山城:備中・松山城、大和・高取城と岩村城)
岩村城の創築は鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の重臣加藤景廉が、文治元年(1185)に遠山荘地頭に補せられたのに始まる。景廉の長男景朝が岩村に移り、加藤の姓を地名の遠山に攻め、以降遠山氏が代々居城した。
戦国動乱の時代に入り、武田信玄の臣秋山信友が天正元年(1673)に岩村城を奪取して入城したが、同3年に織田軍に敗れ、以降城主は川尻鎮吉と森蘭丸、森長一、森忠政の森三代、田丸具忠と28年間に目まぐるしく交替した。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦後、西軍に属した田丸氏に変わって松平家乗(大給松平家)が城主となった。江戸時代の城主は松平氏2代、丹羽氏5代の後、大給松平分家の松平氏7代を経て明治維新を迎えた。
城郭は中世城郭を近世城郭へと修築し、本丸、二の丸、出丸、帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪等々が設けられ、丸と曲輪は石塁や自然の断崖をもって区画され、要所に櫓、塀、城門が構えられた。
建物は明治維新により廃城され、後明治6年(1873)に取り壊された。 |
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<藤坂>
岩村城大手の登城道のうち、藩主邸から一の門まで続く急な坂道は「藤坂」と呼ばれている。加藤景廉の妻重の井が輿入れの際に、生まれ育った紀州藤城村から持参した種から育てたと伝える、フジの大木があったことがその由来という。 |
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<初門>
直線的に伸びる登城坂でこの部分だけが、行く手を遮るように鉤(かぎ)の手に大きく曲げられている。有事の際にはここに臨時の門を構えて通行を遮断するようになっていたため「初門」と呼んだという。岩村城の最初の関門である。 |
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<一の門>
二層の櫓門で、大手一の門とも呼ばれる。城に向って左側には単層の多門櫓が構えられ、右側の石垣上も土塀で厳重に固められていた。前面左側には石塁が張り出しており、死角から敵が近づかないように工夫されている。内側には番所が置かれていた。 |
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<土岐門>
岩村城第二の門で、内側は馬出状の曲輪となっている。絵図では薬医門または四脚門として描かれている。土岐氏を破ってその城門を奪い移築したという伝承からこの名がついた。廃城後に徳祥寺(岩村町飯羽間)山門として移築され現存している。 |
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<畳橋>
大手の入口は、高石垣と桝形門、三重櫓によって厳重に固められており、前面の空掘にL字形に架かる木橋を渡って内部に入るようになっていた。床坂を畳のようにめくることができたことから畳橋と呼ばれたという。 |
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<追手門・三重櫓>
追手門は、畳橋から棟門をくぐり直角に右に曲がって櫓門に入る桝形門である。脇には畳橋を見下ろすように三重櫓が構えられていた。三重櫓は岩村城唯一の三層の櫓で天守に相当し、城下町の馬場と本通りはこの櫓を正面に見るように設定されている。 |
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<石垣>
本丸の北東面に雛壇状に築かれた六段の見事な石垣である。元は絵図のように最上部のみの高石垣であったが、崩落を防ぐために前面に補強の石垣を積むことを繰り返した結果、現在の姿となった。
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<長局埋門>
両側の石垣の上に多門櫓を載せ、石垣の間に門を設けた櫓門。門の内側の細長い曲輪は長局(ながつぼね)と呼ばれている。入って左手の本丸に入る内枡形状の通路は東口門で、本丸の正門である。前面の一段低い曲輪は東曲輪で、本丸の外桝形的機能を持っている。 |
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<霧ヶ井>
岩村城内には17ヵ所もの井戸がある。そのため籠城に際に飲み水に困ることがなかった。中でも「霧ヶ井」は城主専用の霊泉で「巌邑府誌」という書物に、「敵が攻め入った時、城内秘蔵の蛇の骨を「霧ヶ井」に投じると、たちまちに霧が湧き出て城を覆い尽くし、城を守った」と記されている。故に岩村城は別名に」霧ヶ城」と呼ばれている。
この水は今も絶えることなく湧き出し、昭和62年(1987)に岐阜県の名水50選に認定された。 |
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<本丸>
本丸には納戸櫓など二重櫓2棟、多聞櫓2棟が石垣上に構えられていた。東と北には一段低い位置に長局と呼ばれる細長い曲輪が付属する。正門は東曲輪側の東口門である。内部には施設はなく、広場となっていた。 |
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<岩村城の模型>
岩村歴史資料館にある岩村城の模型。 |