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<特別史跡 江戸城跡>
江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌によって創築されたが、天正18年(1590)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。
以来、家康、秀忠、家光の三代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。
明治維新後江戸城は皇居となり、昭和24年(1949)に西の丸下及び皇居を取りまくお濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和44年(1969)から北の丸の地域が加えられ広く国民に親しまれている。
この江戸城跡は、300年近くにわたる将軍の居所として、また政治の中心としての史的価値が極めて大きく、その規模はわが国随一のものであることから、昭和38年(1963)年5月30日に文化財保護法による「特別史跡」に指定された。
<天守台>
最初の天守閣は、1607年、二代将軍秀忠の代に完成したが、その後大修築され、1638年、三代将軍家光の代に、江戸幕府の権威を象徴する国内で最も大きな天守閣が完成した。外観5層、内部6階で、地上からの高さは58mあった。しかし、わずか19年後の1657年、明暦の大火(振り袖火事)で、飛び火により全焼し、以降は再建されなかった。 |
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<江戸城本丸御殿>
この天守台から見える大芝生とその周辺には、江戸城本丸御殿の建物が立ち並んでいた。本丸御殿は、表、中奥、大奥という三つの空間に分かれていた。
表には、将軍の謁見など公的な儀式・行事、幕府諸役人の執務の場で、中奥は将軍の日常生活、政務を執る場、大奥は御台所と呼ばれた将軍の正妻をはじめ家族や女性たちの生活の場であった。 |
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<石垣>
皇居内の石垣は、特別史跡「江戸城跡」に指定されている。「本丸中之門石垣」修復工事は平成17年(2005)から平成19年(2007)3月にかけて行った。修復は、文化財調査を行いながら、石垣を変形前の形状に復元することを目標にした。
石垣には、江戸城の中でも最大級の巨石が使われ、布積みという技法で積まれている。また、この中之門石垣には、本丸御殿への登城口として渡櫓門が配置されていた。 |
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<松之大廊下>
赤穂浪士討ち入りにつながったことで知られる、浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央への刃傷事件(1701年「元禄14年」)のあったところです。廊下に沿った襖戸に松と千鳥が描かれていたのが名前の由来といわれている。江戸城中で2番目に長い廊下で、畳敷きの立派なものであった。 |
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<富士見櫓>
櫓とは、倉庫や防御の役割をもった建物で、かって江戸城には19の櫓があった。今は、伏見櫓、桜田二重櫓と、この富士見櫓の3つが残っている。その中で、富士見櫓は唯一の三重櫓です。明暦の大火(1657年)で消失した天守閣の代用としても使われ、将軍が両国の花火や品川の海を眺めたといわれている。
<旧大手門渡櫓の鯱>
昭和20年(1945)4月、戦災で消失した旧大手門渡櫓の屋根に飾られていた鯱です。頭部に「明暦三丁酉」と刻んであることから、明暦の大火(1657)で消失した後、再建されたものと推定される。今の大手門渡櫓は、昭和43年(1968)に再建されたものです。 |
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<大番所>
大番所は、大手中之門の内側に設けられていた警備詰所です。ここには位の高い武士が勤務していた。この番所は、明治期に改築され、作業所として使われていたが、昭和43年(1968)に江戸時代の姿に復元された。 |
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<同心番所>
「番所」とは警備詰所のことで、江戸城にあった番所のうち、百人番所、大番所、同心番所の3つが残っている。ここには「同心」と呼ばれる武士が詰め、登城者の監視に当たっていた。屋根瓦には、皇室の菊の御紋のあるものや徳川家の葵の紋があるものも見られる。 |
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<百人番所>
江戸城本丸への道を厳重に守る中之門に向き合って設けられた警備詰所です。甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組という4組の鉄砲百人組が昼夜交替で勤務していた。各組は、20人の与力と、100人の同心で構成されていた。 |
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<乾門> (上覧所跡)
門は、皇居(旧江戸城)の北西に位置し、乾の方角にあることから名付けられた。この場所には主に将軍が物事を見物する「上覧所」と呼ばれる施設があった。旗本たちが日ごろの武芸鍛錬の成果を将軍に披露したり、「天下祭」と呼ばれる山王社(現在の日枝神社)と神田明神(神田神社)の祭礼行列もここに立ち寄った。明治21年(1888)、旧西の丸裏門にあたる紅葉山下門がここに移築され、皇族などの皇居への出入口となり、乾門と呼ばれるようになった。 |
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<坂下門>
坂下門は西の丸大奥に近く、西の丸の通用門として利用されていた。文久2年1月15日(1862年2月13日)の「坂下門外の変」(老中・安藤対馬守信正が水戸浪士に襲われた事件)はこの門外で起こった。 |
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<局門>
城内のお局様たちが出入りしていた門なのだろうか。 |
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<北桔橋門> (きたはねばしもん)
門の名は、本丸北端に位置し、有事に備えて跳ね上がる構造の橋があったことに由来する。この門は、本丸西側の西桔橋門とともに、本丸を守る重要な城門だった。
この地域は、北の丸から本丸に続く台地を掘って深い濠を築いたため、高さ20m以上の石垣がそびえている。また、半蔵門から江戸城内に入った玉川上水は、古写真にあるように、この門から2本の水道管で本丸に水道を引き込んでいた。 |
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<平川門>
平川門は、江戸城内郭門の一つで、三の丸から城外への出口にあたり、御三家・御三卿はここから登城した。現在の九段南一丁目は、平川村と呼ばれていたため、名付けられた。別名で「不浄門」とも呼ばれるのは、城内の死者や罪人がここから出されたことにゆらいする。 |
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<門長屋> |
門長屋は長屋の中央部分を門としたもので、伝統的な門形式で長屋門のことです。 |
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<道灌濠> |
道灌濠は、室町時代に太田道灌が築いた城の外濠だったという説がその名の由来になっており、江戸城西の丸内部に向かって流れている。 |
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<蓮池濠> |
かつて千鳥ヶ淵から日比谷入り江に流れ込む川だったが、江戸城を拡張した時に整備された。 |
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<竹橋門跡> |
門の名は、竹で編んだ橋が最初に架かっていたことに由来する。門は、元和6年(1620)、仙台藩(現在の宮城県)藩主伊達政宗ほか6名の大名によって築造された。この門は、北の丸の東の出入口にあたり、山王社(現、日枝神社)と神田明神(神田神社)の天下祭りの山車行列は、この門を通過した。
竹橋門の石垣の多くは撤去されているが、この門の脇から平川門に通ずる帯曲輪という通路や濠石垣は良好に残っている。大正15年(1926)に帝都復興事業で架設された現在の橋は、ほぼ江戸時代の橋の位置に架けられている。 |
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<平川橋> |
初代の平川橋は慶長19年(1614)に架けられたが、その後幾度かの改修が行われ、現在の橋は昭和63年(1988)に架けられた。親柱の擬宝珠には寛永や慶長等の銘が彫られている。この橋を渡ると平川門になる。濠は平川橋を境に西側は平川濠、東側は大手濠と呼ばれる。 |
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<和田倉橋>
ここには、かつて江戸城の守衛のために築かれた内郭門の一つ和田倉門があった。橋を渡った皇居外苑側には枡形石垣があり、橋と一体で門を構成していた。
慶長7年(1602)頃といわれる「別本慶長江戸図」には橋が描かれ、「蔵の御門と云、士衆通行の橋」と記述がる。また、「御府内備考」には、橋の由来が「慶長12年(1607)の頃の図に、ここに和田蔵と称せし大なる御蔵二棟を図せり。是御門の名の起る処なり。(後略)」と記され、蔵があったため門が名付けられたとしている。なお、徳川家康が江戸に入った時、この辺は和田倉という村落であったという説もある。
和田倉門には、鉄砲十挺・弓五張・長柄槍十筋・持筒二挺・持弓一組が常備されている。警備は、譜代大名で二万石から三万石の者が担当していた。
この橋は、昔そのままに復興されたものだが、江戸城の門と橋を偲ぶのにふさわしい景観をみせている。 |