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<安土城を象徴する道―大手道>
目の前にまっすぐ延びている幅広い道が、安土城の大手道です。安土城の正面玄関である大手門から山頂部に築かれた天主・本丸に至る城内では最も重要な道です。大手道は、その構造から、直線部分、横道・七曲がり状部分、主郭外周路部分の三つの部分によって構成されている。
大手門から山腹まで、約180mにわたって直線的に廷びる部分の道幅は、約6mと広く、その両側に幅1〜1.2mの石敷側溝があり、さらにその外側に高い石塁が築かれている。道の東西には、複数の郭を雛壇(ひなだん)状に配した伝羽柴秀吉邸跡・伝前田利家邸跡等の屋敷があり、これらは書院造りの主殿を中心に厩や隅櫓等、多く建物で構成されている。まさに、安土城の正面玄関を飾るにふさわしい堂々とした屋敷地と言える。
山腹部分は、傾斜が最も急なところで、ジグザグに屈曲しながら延びている。この付近は、踏石や縁石に石仏が多く使われている他、屈曲部分に平坦な踊り場を造ることなく、踏石列を扇状に展開させていることが特徴です。
伝武井夕庵邸跡の北東付近から大手道は東へ屈曲し、主郭部の外周を構成している高石垣の裾を巡り、本丸に直接通じる本丸裏門に至る。屈曲部分は幅4m程に狭まるが、本丸裏門近くでは6mを超える広い道になる。
安土城の正面を通る下街道(しもかいどう)から見える直線的な大手道とその延長上に聳(そび)える天主は、街道を行き交う人々に信長の力を強く印象付けたことでしょう。 |
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石仏は、築城の際に大手道の石材として使われた物。城普請に使用する多くの石材は、近郊の山々から採取したが、石仏や墓石等も含まれていた。
出土して石仏等は、本来は信仰の対象となったものだが、築城の経緯を示すために発見当時の状態で保存している。 |
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<伝羽柴秀吉邸主殿>
安土城が築かれた頃の武家住宅において、接客や主人の生活のために使われていた中心的な建物を主殿という。
この屋敷では、主殿の手前に式台(しきだい)・遠侍(とおざむらい)、奥に内台所が接続して複雑な構成になっている。主殿入口は、建物東部に設けられた玄関です。「玄関」を入ると「式台」の間があり、ここで来客は送迎の挨拶を受ける。その背後には、武士が控える「遠侍」の間が置かれている。式台を左に進むと主殿に出る。畳を敷いた幅1間の廊下の西は、2間続きの座敷になっている。西奥の部屋が床・棚を背に主人あるいは上客が着座する「上段の問」です。上段の間南には主人が執務を行う「付書院」が付属している。南側の「広縁」は吹き放しで、その東端に「中門」が突出している。広縁の途中にある「車寄」はもっとも大事な客―例えば秀吉邸を訪れた信長―が直接上段の間に入るための入口で、上には立派な軒唐破風(のきからはふ)が架けられている。主殿のさらに奥には、簡単な配膳を行う「内台所」や「遠侍」が接続している。 |
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<黒金門跡>
ここは、安土城中枢部への主要な入口の一つである黒金門の跡です。周囲の石垣をこれまで見てきた石塁や郭の石垣と比べると、使われている石の大きさに驚かれることでしょう。平成5年度の発掘調査では、黒金門付近も天主とともに火災にあっていることが分かった。多量の焼けた瓦の中には、菊紋・桐紋等の金箔瓦も含まれていた。壮大な往時の姿が偲ばれる黒金門より先は、信長が選ばれた側近たちと日常生活を送っていた、安上城のまさに中枢部となる。
高く聳える天主を中心に本丸・二の丸・三の丸等の主要な郭で構成されるこのー帯は、標高が180mを越え、安土山では最も高いところにある。東西180m、南北100mに及ぶその周囲は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立(きつりつ)している。高石垣の裾を幅2〜5mの外周路がめぐり、山裾から通じる城内道と結ばれている。外周路の要所には、隅櫓・櫓門等で守られた入り口が数カ所設けられている。この黒金門は、城下町と結ばれた百々橋口(どどばしぐち)道・七曲口(ななまがりぐち)道からの入り口です。
安土城中枢部の建物は本能寺の変の直後に全て焼失したため、炎の凄まじさを残す石垣と礎石によって往時の偉観を偲ぶことができるだけです。しかし、400年以上にわたっで崩れることなく、ほぼ原型を保ってきた石垣の構築技術の高さに驚かされる。様々な表情を見せる安土城の石垣のすばらしさをご鑑賞下さい。
平成7〜12年度の発掘調査から、この一帯の建物群が多層的に結合されている可能性が出てきた。ここから天主に至る通路や天主から八角平への通路の上には覆い被さるように建物が建ち並び、当時の人々は地下通路を通って天主へ向かうような感を覚えたのではないでしょうか。 |
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<本丸跡>
天守台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられてきた。東西約50m、南北約34mの東西に細長い敷地は、三方を天主台・本丸帯郭・三の丸各石垣で囲まれ、南北に向かってのみ展望が開けていつ。昭和16年と平成11年の2度にわたる発掘調査の結果、東西約34mx南北約24mの範囲で碁盤目状に配置された119個の建物礎石が発見された。
7尺2寸(約2.18メートル)の間隔で整然と配置された自然石の大きな礎石には焼損の跡が認められ、一辺約1尺2寸(約36p)の柱跡が残るものもあった。4〜6寸(12〜18p)の柱を6尺5寸(約1.97m)間隔で立てる当時の武家住宅に比べて、本丸建物の規模と構造の特異性がうかがえる。
礎石の配列状況から、中庭をはさんで3棟に分かれると考えられるこの建物は、天皇の住まいである内裏清涼殿と非常によく似ていることが分かった。豊臣秀吉が天正19年(1591)に造営した内裏の清涼殿等を参考にして復原したのが右の図です(図略)。西方の清涼殿風の建物は、密に建ち並んだ太くて高い床束が一階の床を支える高床構造の建物であったと考えられる。大手道を行く人々は、天主脇にそそり立つその姿を正面に仰ぎ見ながら登ったことでしょう。
なぜ、安土城天主の直下に清涼殿に酷似した建物が建てられていたのか。『信長公記』には天主近くに「一天の君・万乗の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、内に「皇居の間」が設けられていたことを記している。信長の二度にわたる安土城への天皇行幸計画は実現しなかったが、この本丸建物こそ、天王行幸のために信長が用意した行幸御殿だったのではないでしょうか。 |
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<天主台跡>
安土城の天主は、完成してからわずか3年後の天正10年(1582)6月に焼失してしまう。その後は訪れる者もなく、永い年月の間に瓦礫と草木の下に埋もれてしまった。ここに初めて調査の手が入ったのは、昭和15年(1940)のことです。
厚い堆積土を除くと、往時そのままの礎石が見事に現れた。この時に石垣の崩壊を防止する為に、若干の補強が加えられた他は、検出した当時のまま現在に至っている。
安土城天主は、記録から地上6階、地下1階の、当時としては傑出した高層の大建築であったことがわかる。今立っている場所は、地階部分だが、天主台の大きさは、これよりはるかに大きく2倍半近くあった。現在では、石垣上部の崩壊が激しく、その規模を目で確かめることはできない。 |
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天主台跡から琵琶湖方面を見る。信長もこの景観を見ていたのでしょうか。 |
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二の丸跡の様子。 |
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<織田信長本廟>
二の丸跡と伝えられる場所に織田信長の本廟がある。天正11年(1583)2月に羽柴秀吉によって建立された。信長の太刀や烏帽子、直垂(ひたたれ)などの遺品を埋葬してある。立入禁止だが、外からその様子を見ることはできる。 |
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<伝前田利家邸跡>
織田信長の家臣であった前田利家が住んでいたと伝える屋敷の跡です。大手道に面したこの屋敷は、向かいの伝羽柴秀吉邸とともに大手道正面の守りを固ある重要な位置を占めている。急な傾斜地を造成して造られた屋敷地は、数段の郭に分かれた複雑な構成となっている。敷地の西南隅には大手道を防備する隅櫓が建っていたものと思われるが、後世に大きく破壊されたため詳細は不明です。
門を入ったこの場所は枡形と呼ばれる小さな広場となり、その東と北をL字型に多聞櫓が囲んでいる。北方部分は上段郭から張り出した懸造り(かけづくり)構造、東方部分は二階建てとし、その下階には長家門風の門が開いている。この枡形から先は道が三方に分かれる。
右手の道は最下段の郭に通じている。ここには馬3頭を飼うことのでさる厩が建っていた。この厩は、江戸時代初期に書かれた有名な大工技術書『匠明(しょうめい)』に載っている「三間厩之図(さんげんうまやのず)」と平面が一致する貴重な遺構です。厩の脇を通り抜けると中段郭に通じる急な石階段があり、その先に奥座敷が建っていた。
伝前田利家邸は、伝羽柴秀吉邸とほぼ共通した建物で構成されているが、その配置には大きな相違が見られる。向かい合うこの二軒の屋敷は、類例の少ない16世紀末の武家屋敷の様子を知る上で、たいへん貴重な遺構です。
<伝前田利家邸跡の虎口>
伝前田利家邸跡の虎口(玄関口)は、大手道に沿って帯状に築かれた石塁を切って入口を設け、その内側に枡形の空間を造った「内枡形」と呼ばれるものです。発掘調査の結果、入ロは南側の石塁及び門の礎右ともに後世に破壊されていて、その間口は定かではないが、羽柴邸と同じ規模の櫓門が存在していたと推定される。門をくぐると左手には高さおよそ6mにも及ぶ三段の石垣がそびえ、その最上段から正面にかけて多聞櫓が侵入した敵を見下ろしている。また、一段目と二段目の上端には「武者走り」という通路が設けられ、戦時に味方の兵が多聞櫓よりもっと近くで敵を迎え討つことが出来る櫓台への出撃を容易にしている。正面右手の石垣は、その裏にある多聞櫓へ通じる石段を隠すために設けられた「蔀(しとみ)の石塁」となっている。入口の右手は隅櫓が位置しており、その裾の石垣が蔀の石塁との間の通路を狭くして敵の侵入を難しくしている。このように伝前田利家邸跡の虎口はきわめて防御性が高く、近世城郭を思わせる虎口の形態を安土城築城時にすでに取り入れていたことがわかる。 |
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<石塁と大手三門>
安土城の南口は石塁と呼ばれる石垣を用いた防塁で遮っている。この石塁が設けられた部分は東西約110mあり、その間に4箇所の出入り口が設けられている。
通常の城郭では大手門と呼ばれる出入り口が1箇所だけです。織田信長は、安土城に天皇の行幸を計画していたことから、城の正面を京の内裏と同じ三門にしたのではないか、西枡形虎口以外の三門は行幸などの公の時に使用する門であったと想定される。
東側石塁は北側に溝がなく基底幅は約4.2mです。石塁は一直線ではなく大手門の所でへの字に屈曲している。石塁の石は、八幡城や彦根城に再利用されたか、江戸時代以降の水田耕作などの開墾により大半が消失し築城時の高さは不明です。そのため復元にあたっては、南側から石塁北側の通路にいる見学者の方が見通せる高さに制限した。東平入り虎口は間口約5.5m奥行約4.2mで、柱を受ける礎石等が残っていないため門の構造は不明です。石塁の中に詰められている栗石(くりいし)がない部分が約30mあり、この間に大手門があったと思われる。 |
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<特別史跡安土城跡>
安土城の築城は、織田信長が武田勝頼を長篠の合戦で打ち破った翌年、天正4年(1576)に始まる。築城にあたっては、畿内・東海・北陸から多くの人夫が徴発され、当代最高の技術を持った職人たちが動員された。まさに安土城は天下統一の拠点となるべく当時の文化の粋を集めたものだった。
築城開始から3年後の天正7年には天主が完成して信長が移り住んだ。しかし、その3年後天正10年に本能寺の変で信長が殺されると、城は明智光秀の手に渡り、その光秀が羽柴秀吉に敗れたすぐ後に天主・本丸は焼失してしまった。
それでも安土城は織田氏の天下を象徴する城として、秀吉の庇護の元で信長の息子信雄や孫の三法師が入城を果たし、信長の跡を継ぐものであることをアピールする。
しかし、天正12年小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると織田氏の天下は終焉を迎え、翌年安土城はその役目を終えて廃城とな。その後江戸時代を通じて信長が城内に建てたハ見寺がその菩提を弔いながら、現在に至るまで城跡を守り続けていくことになる。
安土城跡は大正15年(1926)に史蹟に、昭和27年(1952)に滋賀県蒲生郡安土町・東近江市(旧能登川町)にまたがる約96万m2が特別史跡に指定された。
昭和15・16年(1940・41)に天主跡と本丸跡の発掘調査と整備が行われ、昭和35年〜50年(1960〜1975)にわたって主郭部の石垣修理が行われた。昭和57・58年には信長400回忌にあわせて城跡南面の平面整備が行われている。そして、平成元年度(1989)から安土城跡を将来にわたって永く保存し、広く活用することを目的として『特別史跡安土城跡調査整備事業』が20年計画で行われている。 |
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安土城の5・6階部分の模型。実物の1/7のスケールで再現している。説明文は解説版による。 |