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赤穂城 忠臣蔵   兵庫県赤穂市
赤穂城
 赤穂城は、近世になって発達した軍学・兵法に従って縄張された城であり、本丸、二之丸、三之丸の全ての廓が残された貴重な近世城郭遺構であることから、昭和46年(1971)に国史跡に指定された。
 現在見ることのできる赤穂城は、浅野内匠頭長直が寛文元年(1661)に完成させたものである。城は熊見川(現在の千種川)河口の西岸に位置し、南は瀬戸内海に面した海城で、変形輪郭式の平城である。縄張は藩の軍師であり、甲州流軍学者であった近藤三郎左衛門正純が行い、12の城門と10の隅櫓を築いた。 
赤穂城 赤穂城
赤穂城
大手門桝形
 赤穂城の表虎口である大手門は、石垣を方形に積上げた桝形と高麗門、櫓門の二重の城門を備えた最も厳重な桝形門であった。桝形は打ち出す兵を待機させたり、敵兵を閉じ込めて攻撃するためのもので、その規模は長辺10間(約19.8m.)、短辺6間(約11.8m)、面積234uである。現在ある高麗門は、隅櫓、土塀とともに昭和30年(1955)に再建されたものである。 
 桝形石垣は、明治19年(1886)にその形状を大きく改変され、その後周辺は赤穂大石神社の境内となっていたが、文化庁の国庫補助事業によって公有化が図られ、平成15年(2003)に石垣の修復及び周辺整備が完成した。
 発掘調査によって、桝形石垣、櫓門跡、番所跡、上水道施設、排水枡、大石内蔵助屋敷土塀石垣など多くの遺構が見つかっている。櫓門は、幅4間半(約8.9m)、奥行2間(約4m)であったことが明らかとなり、新たに板石を埋め込んで礎石の位置を示している。
 また、門の前後では川原石を並べた霰(あられ)敷きの雨落ち施設も見つかっている。番所には門番として足軽3名、下番2名が詰め、大手門の警護にあたっていた。
 本丸には藩邸や、池泉庭園、天守台が、二之丸には大石頼母良重の屋敷や、錦帯池を中心とした二之丸庭園、遊水池、米蔵、馬場などがあった。また、三之丸には大石内蔵助良雄をはじめとした重臣たちの屋敷が配されており、城と熊見川との間には藩の米蔵と船入が備えられていた。現在では大石良雄宅跡長屋門と近藤源八宅跡長屋門が江戸時代の建物として残されている。
 城内、城下には熊見川から取水し、各戸給水を成し遂げた上水道が敷設されており、日本三大上水道の一つに数えられている。上水道の余水は、邸宅に設けられた庭園池泉にも使われた。池泉庭園のうち「本丸庭園」と「二之丸庭園」は江戸時代の大名庭園「「旧赤穂城庭園」として、平成14年(2002)に国の名勝に指定された。
赤穂城跡本丸門
赤穂城跡本丸門 赤穂城跡本丸門
赤穂城跡本丸門>(復元)
 本丸門は築城時(17世紀中頃)の構造と推定され、明治10年代後半の取壊しまでの約230年間存続していた。現在の本丸門は、平成4年(1992)文化庁の地域中核史跡等整備特別事業として、全国で初めて採用され、国・兵庫県の補助を受けて総事業費約6.7億円をかけて平成8年(1996)年3月に完成したものです。
 この平成の復元は、明治時代の古写真をもとに、古絵図をはじめとする文献類、発掘調査の成果を総合的に検討して赤穂産の花崗岩による枡形石垣、国産材を使用して昔どおりの伝統工法によって、往時の姿によみがえらせている。
枡形石垣 虎口左前(門桝式)形式 使用石量 1.873t 面積 334.32m 高さ 4.60m
一の門 木造脇戸付櫓門 入母屋造 本瓦葺  上階・下階構造 棟高 10.98m
使用材(欅・桧・杉・松) 材積 75.03m 瓦数 9,820枚
上階 桁行 13.36m 梁間 4.77m 軒高 7.70m  
下階 桁行 8.83m 梁間 4.14m 軒高 4.78m
二の門 木造小戸付高麗門 切妻造 本瓦葺  桁行 3.89m 梁間 2.49m 軒高 4.62m 棟高 6.13m  使用材(欅・桧・杉) 材積 10.97 瓦数 2,270枚
土 塀 桁行 1.80m 梁間 2.41m 長さ 92.67m
中 道 幅 9.73m 長さ18.82m
赤穂城跡本丸門
赤穂城跡本丸門
 本丸の面積は約15,114uあり、その2/3は領主屋敷、番所、倉庫等の建物と天守台、池泉などに占められ、残る1/3はくつろぎ(池泉を発掘調査)と呼ばれる空地になっていた。
 当時の藩邸(御殿)は右手(西)から大部屋を主とする表御殿、中奥、小部屋を主とする奥御殿に区分されていた。表御殿は大書院と小書院を組み合わせた形式で、広間は使者の間と組み合わさって控室となり、そのほか勘定所や上台所が加わり、藩庁として使われていた。中奥は、藩主の居間と寝室からなり、台所が付属していた。奥御殿は藩主の寝間と5室の部屋(局)と台所が設けられ、うち2室は風呂と便所を備えていた。
 復元された御殿は、浅野家断絶後入封してきた永井家の史料である赤穂御城御殿絵図(東京大学史料編纂所蔵)をもとに、赤穂城本丸内水筋図(赤穂高等学校蔵)、赤穂城引渡一件文書の播磨国赤穂城内本丸建屋改帳(花岳寺蔵)、発掘調査の成果などを考察して、建物跡を床高だけ高くし、コンクリート盤上に部屋の間仕切りを示し、板間、座敷間、土間、敷居、廊下、柱、縁などを表現した。また坪庭跡には木陰をつくるため、中高木を植栽した。
赤穂城・二の丸外堀 赤穂城・二之丸門跡
二の丸外堀
 二之丸と三之丸の間に堀で、東は清水門側で熊見川に、西は西中門の先で海に開放し、それぞれの開放部には柵状の施設を設けて船や塵芥の進入を防いでいた。
二之丸門跡
 ここは二の丸門のあった場所である。浅野長直に仕えていた軍学者山鹿素行が承応2年に赤穂へ来て、虎口の縄張の一部を変更した事で知られている。赤穂城二之丸の面積は17,259坪あり、二之丸門は櫓門で、口幅三間一歩、 高さ二間、建坪九坪の大きさであった。
 また、文久2年(1862)12月9日に、赤穂藩主森家の国家老主税が、藩政に対して 意見の異なる藩士たちに暗殺されたのがこの付近である。いわゆる「文久事件」である。この事件は、明治4年(1871)2月の、日本最後の仇討ち「高野の仇討ち」(和歌山県高野山)の導火線ともなった。
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