|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
高山陣屋は、徳川幕府直轄領(天領)の飛騨を治めた代官所(後郡代役所)です。元禄5年(1692)から明治維新(1868)までの177年、江戸から25人の旗本が、代官(郡代)として派遣され飛騨を支配した。
明治維新後は主要建物がそのまま地方官庁として、昭和44年(1969)まで使用されてきた。
以後、岐阜県教育委員会は保存と復元に尽力し、足かけ16年の歳月と約20億円を費やして平成8年(1996)3月に、江戸時代の高山陣屋がほぼ再現された。江戸時代の60数カ所もあった陣屋の内、唯一現存するのがこの高山陣屋です。昭和4年(1929)国史跡に指定された。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
<高山陣屋跡>
元禄5年(1692)7月高山城主金森頼岩は出羽国上ノ山に転封となり、飛騨国は徳川幕府の直轄領となった。幕府は8月18日関東郡代伊奈十郎忠篤に飛騨代官を兼務させ、22日に加賀藩主前田綱紀に高山城在番を命じた。伊奈代官は金森氏家臣四家の屋敷を会所として金森氏転封後の事務処理にあたった。
元禄8年(1695)4月高山城の取り壊しが始まり、金森重頼の3人の娘が居住していた向屋敷に代官所を移して高山陣屋と称した。以後明治維新に至るまで飛騨国内の政務は高山陣屋で執行された。
元禄8年当時の高山陣屋は約38,000m2の広大な敷地を有していた。高山城三の丸にあった米蔵二棟を陣屋内に移築し御蔵とした以外、建物の配置,規模などは不明である。享保10年(1725)老朽化が激しきなった高山陣屋の建物は御蔵以外全て解体され、旧材を利用して御役所と御役宅に区分して建て替えられ、陣屋としての形態が整えられた。しかし、敷地は三分の一に縮小されている。その後、文化13年(1816)御役所、文政13年(1830)郡代役宅、天保3年(1831)御門と陣屋の建物は漸次改築された。
この間、享保14年に美濃国の一部、明治4年(1767)に越前国の一部飛騨代官の所管地となり、また同6年12代代官大原彦四郎紹正が布衣郡代に昇進し、関東,西国,美濃と並んで飛騨は幕府の中でも有数の地位を占めるに至った。
明治維新後、飛騨県,高山県,筑摩県,岐阜県と行政区画が変転する中にあって、旧高山陣屋は県政の庁舎などに転用され、また敷地も分割されていった。昭和44年(1969)年飛騨県事務所が移転し、高山陣屋跡の管理は岐阜県教育委員会が所管することとなった。岐阜県教育委員会は全国にただ一つ現存する幕府の陣屋跡を後世に保存すべく、昭和45年(1970)以来、文化庁の指導・支援を得て復元修理工事を実施している。(解説文より) |
|