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古代、西海道と呼ばれた九州一円を統括していた太宰府は外交・貿易などの対外交渉の窓口として重要な任務を課せられていた。その機構は、中央政府に準じ、地方機関としては最大規模の行政組織を有していた。
発掘調査によると、7世紀後半に堀立柱建物が建てられ、8世紀初頭に礎石を用いた朝堂院形式の建物に整備された。この建物は、藤原純友の乱で焼き討ちされたが、10世紀後半には立派に再建された。
現在見ることお出来る礎石は、この再建期のもので、発掘調査をもとに復元したものである。これらの建物は菅原道真が「都府の楼はわずかに瓦の色を看る」と詠っているように壮大なもので、当時としては中央の都の建物にも劣らぬものであった。
正殿は重層風につくられ、屋根は入母屋ないしは寄棟造りであったと思われる。このように政庁を中心にして周囲は、数多くの役所が配置され、その規模は平城・平安の都に次ぐ「天下の一都会」であったと言える。
大宰府跡は、大正10年(1921)に史跡に指定され、昭和28年(1953)には特別史跡に指定された。 |
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<正殿跡>
太宰府の長官である帥(そち)が政務を執り、これと関わる儀礼や儀式で最も重要な役割を果たした場が正殿である。太宰府は中央政府の縮小版として西海道(九州)の管内諸国を統括していた。宮都での元旦拝賀を参考にすれば、大宰府でも元旦には管内諸国から国司らが集い、正殿に座した帥に拝賀する儀礼が行われたと思われる。このように正殿はその政治的秩序を保つための威厳に満ちた建物だったことだろう。
<発掘調査でわかったこと>
政庁の建物群は3期(T〜V期)にわたって変遷し、T期は掘立柱建物、U・V期は礎石建物が採用され、中・南門の建物についてはU期とV期がほぼ同じ規模と構造だっろう。たことが判明している。
近年の調査では、正殿も他と同様にU・V期の基壇(建物の基礎)が同一規模で建替えられていたことが明らかになった。この建替えの原因となった941年藤原純友の乱による火災を示す焼土や炭をV期整地層の下部で確認した。さらに基壇の下層でT期の掘立柱建物・柵・溝等を発掘した。これら建物群はいずれも規模が大きく整然と配置され、周囲を柵と溝で区画していることが判明した。すでにT期の段階から儀礼空間を意識した配置だったと考えられる。
<正殿の建物>
残された礎石からV期の建物は正面7間(28.5m)、奥行4間(13.0m)の平面規模がわかっている。また基壇の正面と背後には3つの階段が取付き、正面を除いた周囲の礎石には壁を設けるための加工が施してある。柱は直径が約75p、これをのせる礎石は巨大で、しかも円形の柱座を3重に削って装飾してある。
こうした調査成果と正殿の役割から考えると、建物は寄棟の大屋根と庇を別構造で組み合せ、朱塗の柱と白壁で仕上げた外観、そして内部を吹抜けのホールのような空間にした建築だったことが想定できる。 |
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<南門>
南門は政庁の南に開かれた正門である。南門には東西に延びる築地塀が取り付き政庁全体を囲んでいた。要人や外国の使節を応接するにふさわしい威容を誇っていたであろう。なお役人の日常の出入りには築地塀に設けられた脇門を利用していたと考えられる。
<発掘調査でわかったこと>
南門跡は中門跡とともに、昭和43年(1968)に大宰府跡で最初の発掘調査が行われた場所である。この調査によって地表面に見える礎石群は奈良時代(政庁第U期)のものではなく、平安時代後半(政庁第V期)に建て替えられた時のものであることが判明した。
建物の平面形は変わらないが、基壇(建物土台)は拡張されておりU期に比べて大きくなっている。基壇の中央部から水晶や琥珀を納めた鎮壇のための須恵器壺が完全な形で出土した。この壺はU期の門の築造年代を知る有力な手がかりとなった。
礎石は11個残っていた。調査結果をもとに平面復元を行った。現在見えている礎石は右図のように本来の位置のもの、移動されたもの、現在の材質で復元したものの3種類がある。なお両側の柘植の植栽は、築地塀を表示している |
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<南門の復元模型>
これまでの発掘調査の成果と、現存する古代建築の構造・意匠を参考にして、想定復元した模型。復元された南門建物は、高さ18.2m、正門5間(21m)、奥行き2間(8.2m)の規模を誇り、正面入口には3ヵ所の扉が設けられていた。また、大宰府の玄関口としてふさわしく、2階建で入母屋造りの屋根をのせた、壮麗で堂々とした門だったと想定している。
「遠の朝廷」(とおのみかど)と称された太宰府の偉容を示す格式高い南門。太宰帥として赴任していた大伴旅人も、政庁での勤務に励みながらも南門を眺めたことだろう。 |
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築地塀跡 |
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中門跡 |
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脇殿跡 |
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後殿跡 |
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東楼後 |
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西楼後 |
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「遠(とお)の朝廷」として、繁栄を誇った太宰府も平安時代末期(約900年前)にはその役割を終え、田畑と化してしまった。 |