|
|
|
|
|
|
|
|
吉田松陰は安政4年(1857)実家杉家宅地内にあった小屋を改造して8畳の塾舎とし更にその翌年10畳半を増築した。これが規在松下村塾で、松陰27才の時のことである。ここで松陰が教育した間は1年であり、実家の幽囚室時代を、通算しても2年半に過ぎない。
初め吉田松陰の叔父玉木文之進がここからほど遠くない自宅で私塾を開き、松下村塾と名付けていた。ついで外叔久保五郎左衛門がその名を継承し、師弟の教育にあたった。安政4年(1857)松陰がこれを継ぎ、幽囚室からここに移り講義を行った。
この短い期間にこの粗末な教室から若い松下村塾グループが育ち、安政の大獄で刑死した師の志を継いで尊攘討幕運動に挺身し明治維新の原動力となつた志士の主な者は激動期に死んでいったが、生き残つた者は維新政府中枢に立って新しい日本を指導することになった。 |
|
|
|
明治維新の先覚者吉田松陰は天保元年(1830)、萩松本村の藩士、杉百合之助(26石)の次男として生まれ、幼くして山鹿流兵学師範の家柄である吉田家(57石6斗)を継いだ。
19歳の春、独立の師範となって藩校明倫館に多くの生徒を教えたが、21歳の秋から、学問研究のために肥前平戸に遊学して以後の数年は、江戸、水戸、東北地方、再び江戸、長崎、江戸と旅行を続け、沿道各地も視察し、また多くの学者や志士をたずねて、学事を問いまた時事を論じた。
嘉永6年(1853)6月、アメリカ軍艦が浦賀に来航するにおよんで、松陰は海外の事情を視察、研究する必要を感じ、翌年3月、下田からアメリカの軍艦に便乗しようとしたが失敗に終わった。
その年10月萩に送られ野山獄に入れられた。獄にあること1年余り、ついで実家杉家に謹慎を命ぜられた。松陰はこの入獄および謹慎中を勉学の好機として驚くほど多くの本を読み、自らも原稿を書き、さらに松下村塾を継承して多くの青少年を教えた。この期間は松陰の生涯の中で最も平和な時期であり、また最も輝かしい業績をのこしたときである。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
松陰の人たる所以ゆえんを学ぶ子弟同行の情念は多くの門人たちに強い感銘を与えた。高杉晋作をはじめ久坂玄瑞、入江九一、吉田稔磨、前原一誠、品川弥二郎、野村靖、山田顕義、伊藤博文、山縣有朋(以上松下村塾)木戸孝允(明倫館)など、各々よくその特徴を発揮して、明治維新の大業を翼成したことは周知のとおりである。
ところが、安政5年(1858)、幕府が勅許を得ず外国との通商条約に調印してから、松陰の時局に関する言動は特に激しくなり、幕府は塁を藩主におよぶことをおそれて、再び野山獄に投じた。ついで幕命によって江戸に送られ、世に言う安政の大獄の難にあい、安政6年(1859)、10月27日「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留とどめ置おかまし大和魂」の辞世をのこして江戸伝馬町の獄で処刑された。
松陰の生涯は、わずか29年余りであったが、当時のわが国の複雑な内外事情を十分見きわめながら、常に自己を見失うことなく、至誠を貫き通した生きざまは、今日においても新鮮な魅力をたたえ、人の心をゆさぶり引きつけてやまない。(松陰遺墨展示館パンフレットより引用) |
|
|
|
|
|
|
|
<吉田松陰幽囚の旧宅>
この旧宅は、安政2年(1855)から数年の間、吉田松陰が幽囚された家で、東側にある3畳半の1室が幽囚室である。
松陰は、伊豆下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗し、江戸伝馬町の牢に捕らえられた。ついで、萩に送られ野山獄に入れられたが、その後、釈放され父杉百合之助預けとなり、幽囚室に謹慎し読書と著述に専念した。そして、近親者や近隣の子弟たちに孟子や武教全書を講じた。国指定史跡。
「 親思う心にまさる親こころ今日のおとずれ何ときくらん 」
処刑を覚悟した松蔭が親達に書き送った便りの一首。 |