安田講堂は設立以来あらゆる場面で東大のシンボルとして存在してきました。東大はその時代その時代の日本の社会情勢を映すスクリーンのような役割も果たしてきたと言えます。特にこの安田講堂は常に渦中にありました。
関東大震災以前、本郷キャンパス内は各学部がそれぞれのスタイルでバラバラな建物を建てていました。そのような状況の中、安田善次郎氏の寄付により大講堂を建てる計画が持ち上がります。安田講堂は1921年に起工、工事中に関東大震災に遭いながらも倒壊することなく1925年竣工を迎えました。関東大震災では周辺の建物が倒壊・類焼し、その直後に内田祥三(第14代総長)により、この安田講堂のビスタを中心としたキャンパス計画が提案されるに至ります。
内田祥三の提案は非常に巧い計画でした。正門から安田講堂への銀杏並木では左右に法文校舎や列品館を配置し、これに直交する形で工学部1号館から総合図書館までの銀杏並木を配置します。軸の突き当たりにモニュメンタルな建物を構え、キャンパス中央部のどこにいてもキャンパスらしい深遠な風景を望めるようにするという構想の巧みさは、現在キャンパスのその部分を歩いてみるだけで実感できるものです。
特に正門から安田講堂を望む風景は東大を象徴するものです。現在は安田講堂の裏に背の高い理学部1号館や高層マンションが進出してしまったために魅力が半減してしまいましたが、それでも安田講堂は力強く建っています。
安田講堂が全国的に有名になったのは昭和44年(1969)、大学解体を掲げ過激派の学生たちが安田講堂内に立てこもった事件によります。角材を持った過激派学生たちと機動隊が衝突する様子がテレビで放送されました。この闘争により安田講堂の内部は荒れ果て、その後暫く閉鎖されることになります。昭和63〜平成6年(1988〜94)の修繕で修復され現在は再び利用されるようになりました。
安田講堂前の広場の地下には定食メニューを多く取り揃えた中央食堂が、また講堂の裏側には食料品や東大グッズを扱う生協第二購買部、24時間営業のため理系の学生に重宝されているローソン、学生・教職員を対象に診療を行う保健センター、国内外様々な旅行の手続きを請け負うトラベルセンター、あらゆる相談に対応するなんでも相談コーナーなど、様々な施設が揃い、キャンパスライフの中心地となっています。今後も安田講堂は様々な意味で東大の中心であり続けるようです。(東京大学UTーLifeより)
全共闘運動はもはや過去の1ページになってしまった。以下は「プレイバック全共闘」として掲載する。 |