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明治5年(1872)、近代教育制度の基となる「学制」が決められた。それに先立ち東京府は、明治3年(1870)年6月、市内に6つの小学校を開設した。
最初の公立小学校である。そのうちの1校が、この地(旧本郷丸山)にあった「本妙寺」に置かれた「第四校」である。
この小学校は、中学に進み専門学科を学ぶ者のために普通学を授けた。そのため程度も高く、主に漢籍を教授した。
開校当時の生徒数は不詳であるが、職員は7名であった。
翌4年(1871)12月、文部省直轄の「共立学校」となり、近くの麟祥院(旧龍岡町)境内に移った。今日の湯島小学校の前身である。
この地には更に以下の2つの説明版がある。
<本妙寺跡と明暦の大火>
本妙寺(現在豊島区巣鴨5−35−6)は旧菊坂82番地(現本郷5−16)の台地一帯にあった法華宗の大寺院であった。寺伝によれば寛永13年(1636)にこの地に移ってきた。
境内には北山奉行“遠山の金さん”こと遠山左衛門尉景元、幕末の剣豪千葉周作や囲碁の本因坊歴代の墓所があった。
明暦3年(1657)の大火“振袖火事”の火元とされているが、原因は諸説ある。この大火後、幕府は防火対策を中心に都市計画を打ち出し、文京区の地域には寺社、武家屋敷などが多く移転してきて、漸次発展することとなった。
<私立女子美術学校菊坂校舎跡>
この地に、明治42年(1909)佐藤志津校長らの尽力により、私立女子美術学校【現女子美術大学・同短期大学:創立明治33年(1900)本郷弓町】・佐藤高等女学校【現同大学付属高等学校・中学校:創立大正4年(1915)】の菊坂校舎が建設された。
特に女子を対象とした美術教育の専門学校として、画期的な役割を果たしたが、更に大規模な校地を求め、昭和10年(1931)現杉並区和田へ移転した。 |
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