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<家康を窮地から救った太鼓>
三方原の戦いに敗れた徳川家康は浜松城に逃げ帰ったが、武田勢は城の周囲にまで迫っていた。このとき、城中を守っていた酒井左衛門尉忠次はいちかばちかの作戦を思いつき、城門を開いて篝火を焚き、力いっぱいこの太鼓を打ち鳴らして威勢を示した。追撃してきた武田勢は、勇壮に響きわたる太鼓の音に、徳川方に何か策略があるのだと感じ、城を離れていった。このようにして家康は窮地を逃れ、浜松城は落城の危機から救われたと伝えられている。
<児童の士気をを高めた太鼓>
見付学校が新築落成した年、家康の窮地を救ったといわれる「酒井之太鼓」が、見付学校に寄贈された。
明治7年(1874)浜松の祭りを見物していた見付の花屋吉三郎らが、板屋町の屋台で使っている太鼓が浜松城の警鼓であったことを知り、板屋町から買い受けた。太鼓は吉三郎らがどこに置くかと協議していたとき、ちょうど見付学校が建築中であったことから当寺の見付の戸長・古澤修らと交渉して、翌年開校を記念してこの学校に置くことになった。
太鼓は最上階に据え付けられ、児童の登校の合図と正午の時報として、また児童の士気を高めるために毎日打ち鳴らされ、見付の人たちの生活の音として親しまれていた。(説明文より) |
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