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佐賀城本丸歴史館は、日本の近代化を先導した「幕末・維新期の佐賀」の歴史や、世界に活躍した先哲の偉業を検証し、分かりやすく伝える施設として、また、新しい郷土発展の源泉となる施設として、ここ佐賀城本丸跡に建設された。
この歴史館は、佐賀十代藩主鍋島直正が天保期に再建した佐賀城本丸御殿(1838完成)の一部を忠実に復元しており、本丸御殿の復元としては日本初、木造復元建物としては日本最大規模となる2,500u
の広さを誇る。
復元にあたっては、佐賀城本丸御殿の発掘調査、絵図・差図・文献資料・古写真、類例建物など建物復元調査の成果をもとに、佐賀城本丸の正確な位置に遺構を保護しながら再建している。
復元された建物は、当時の名称で「御玄関(おげんかん)」「御式台(おんしきだい)」「外御書院(そとごしょいん)」「御料理間(おりょうりのま)」「御納戸(おなんど)」「御仕組所(おんしくみどころ)」「屯之間(たまりのま)」「御小書院(ごこしょいん)」「御座間(ござのま)・堪忍所(かんにんどころ)」という建物です。
建物周囲の国重要文化財「佐賀城鯱の門」、城堀、そしてこの天守台などの文化遺産とともに、当時の雰囲気を味わうことができる魅力的な空間である。 |
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<鍋島直正が建築した当時の柱>(上左画像)
具材は杉。腐食が激しい部分などには新たな接ぎ木をして当時の具材を再利用している。
<江戸時代の本丸御殿の礎石>(上右画像) |
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<金武良哲がつくった木製顕微鏡>(上左画像)
金武両哲(かねたけりょうてつ)の手製と伝えられる。ろくろで削った木製の本体を、3本の竹の脚で支える。レンズは4枚で、対物レンズが入った紙製の鏡筒を上下させてピントを合わせる仕組みである、
<アルファベットが書かれた鍋の蓋>(上右画像)
ドライドックから出土。蓋つまみ内側には「坂」、外面には流暢な筆記体で「SaCa」と墨で記される、鍋の所有者が姓名(またはその一部)を漢字とアルファベットで記したものと推測される。 |
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<三重津海軍所跡から出土の石炭>(上左画像)
蒸気船のボイラーで使用した燃料。武雄市北方町(多久領)から大量の石炭が三重津海軍所に出荷されたほか、佐賀藩士が伊万里市山代(小城領)や長崎県の深掘、香焼島、伊王島で出炭量調査や検分した記録が残っている。
<石垣張り>(上右画像)
当時は大きな和紙を漉く技術が無かったので、障子戸には必ず紙と紙との繋ぎ目があった。その繋ぎ目wp「石垣」のように張っており、「石垣張り」といわれる。材料は現在も佐賀県産の和紙をしようしている。 |
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<三重津海軍所絵図>
三重津(早津江川右岸)にあった幕末の佐賀藩の海軍所の様子を、昭和の初めに想像して描いたもの。ここでは、海軍で必要な技術の訓練とともに、船の修理や造船も行っていた。
<三重津海軍所跡>(世界文化遺産)
佐賀藩は、安政5年(1858)、早津江川畔に以前からあった「御船屋」を拡張して海軍の伝習機関「御船手稽古所」(のちの「三重津海軍所」)を設置した。海軍所では、航海・造船・鉄砲等の学科や技術教育が行われたほか、蒸気船の修理・製造が行われ、慶応元年(1865)には、国産初の実用蒸気船である「凌風丸」を完成させた。
平成27年(2015)、「明治日本の産業革命遺産・製鉄・製鋼・造船・石炭産業」の構成遺産のひとつとして世界文化遺産に登録された。 |
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<幕末に造られた反射炉>
幕末には日本各地で反射炉が造られた。幕府や藩によって建造されたものでけだなく民間で経営された反射炉もあった。
・韮山(幕府) 安政元年(1854〜) |
・萩(長州藩) 安政4年(1857〜) |
・多布施(佐賀藩) 嘉永6年(1853〜) |
・築地(佐賀藩) 嘉永3年(1850〜) |
・磯・集成館(薩摩藩) 嘉永5年(1852〜) |
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<精錬方製作の蒸気車の模型>(上左画像)
日本製の蒸気車模型としては現在最古といわれる。蒸気の力の不足を補うため、複数のギアを組み合わせて、小さな力でも車輪が動くようにするなど、工夫のあとがみられる。
<精錬方製作の蒸気船の模型>
精錬方が蒸気機関研究のために試作した模型。2気筒のエンジンで動き、側面に水車のような形の推進機(外輪)がある。佐賀藩が造った蒸気船「凌風丸」お原型といわれる。 |
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<湿板写真機>
フィルムのかわりにガラス板を使う湿板写真は、ガラス板にぬった溶液が湿っているうちに撮影と現像を行う。このカメラは、幕末のもので、写真術の研究をしていた精錬方で試作されたと考えられている。
<模型の蒸気船>
佐賀藩が作った模型の蒸気船。実際に人が乗れる「凌風丸」という本物の船ができた。
<長崎海軍伝習と精錬方>
精錬方に所属する人たちは、長崎で始まったオランダの海軍伝習に参加を命じられた。藩外出身の中村奇輔や田中久重父子は変名を使って参加している。オランダ人の教官から直接、造船法や蒸気船の構造について学んだことによって、精錬方の研究は大きく進展した。 |