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<運上所跡> (長崎市立市民病院(長崎市新地町)右側)
運上所は、安政5年(1858)の開国により、税関の事務や外国船からの税金徴収や荷改めを行うために設置され、当初は湊会所と呼ばれていた。万延元年(1860)第一次居留地造成工事に伴ない、築町の表物役所内に移転した。
文久3年(1873)に運上所と改められ、慶応2年(1866)この地に庁舎が新築された。
明治6年(1873)、運上所は長崎税関と改称、明治24年(1891)、税関本庁舎に建て替えられた。長崎税関はその後昭和3年(1928)出島町に新庁舎が落成し、移転。現在に至っている。
<坂本龍馬、ここ運上所にて、英イカルス号事件裁判に立会う>
慶応2年(1866)6月に、俵物役所(現18銀行本店の地)にあった運上所は、この地の新庁舎に移り、明治6年(1873)に長崎税関と改称される。
イカルス号事件は、慶応3年(1867)7月6日夜、英国艦隊イカルス号の水兵2人が丸山花街寄合町の道路に泥酔して寝ていたところを何者かに殺害された事件であって、土佐藩士が疑われたが高知談判で結論は出ず、長崎に戻って8月18日立山役所、翌8月19日にここ運上所での裁判となった。
※慶応3年7・8月時点で、各藩出先から長崎奉行所に事件当夜の動静報告が提出されたのは、土佐藩を含む47藩であった。
※殺された英水兵ロバート・フォード、ジョン・ホッチングス2人は大浦国際墓地に眠っている。
※事件犯人は、1年後に黒田藩士金子才吉と判明するが、金子本人は事件の翌々日、
黒田藩水之浦屯営所で自刃し果てた。
※松ヶ枝岸壁の「長崎遊学の標」には、長崎海軍伝習生としての金子才吉の名札もある。
<運上所における糺問>
松平土佐守家来(横笛船)中島作太郎
※坂本龍馬は、才谷梅太郎の名で立会っている。
梅太郎 横笛船の運転は、いつ聞いたか。
作太郎 横笛船を運転するということは、6日の朝聞かされまして、7日暁2時に出帆しました。
梅太郎 6日の夜、出帆するまでどこへいちょったか。
作太郎 その晩下宿におりよったところ、夕方、田中浩蔵来ましたが、いったん宿へ引き返し、再び五ツ半(21時)頃来ました。12時過ぎ、菅野覚兵衛・佐々木栄が門口から誘いましたので、連れこって出ました。大波止から通い船に乗り、横笛船へ行きました。船には土州船の船印が立っちょりました。
梅太郎 横笛船は何時に出港し、どこへ行ったか。またどこかへ、寄らざったか。
作太郎 2時ごろ出港して、港外の山のある島の近くまで行きよりましたが、どこへも寄りませざった。
梅太郎 イギリス人が殺害されたという話はいつ聞いたか。
作太郎 7日の8時頃帰港し、その日の夕方宿へ帰った時、寄合町に殺人があったという話を聞きました。(以下略)
(原文は「続通信全覧」、土佐弁は高知の下元正清氏に依頼)
この長崎裁判の後、龍馬は芸州藩船震天丸を借り、慶応3年9月18日に出航する。
龍馬は2ヵ月後の京都・近江屋の悲劇を知るよしもなかったのであった。 |
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