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この下の川が流れる松山町は、1945年8月9日、午前11時2分、人類史上2番目の原子爆弾が炸裂した中心地である。
当時この町には、約300世帯1,860人余の一般市民が生活していた。松山町の上空約500mで爆発した一個の原子爆弾は、その直後巨大な火の玉となり、それにより生じた数百万度の熱線と放射能と巨大な爆圧は、あらゆるものを一瞬にして破壊し尽くし汚染した。
町内にいた者は、偶然にも防空壕に避難していた9歳の少女を除き全員が即死した。
壊滅した松山町は想像を絶する灼熱地獄と化し、惨渦の跡は黒こげの死体が累々と荒廃した焦土に横たわり、まさに地獄の終えんを思わせるものであった。
また、下の川上流の家屋解体作業に派遣されていた県立長崎工業学校の先生及び生徒も、ほとんど爆死した。
この地で被爆死された方々のご冥福をお祈りし、二度と再びこの惨渦が地球上に繰り返されないことを願って、この地に碑を設置するものである。 |
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1945年(昭和20)8月9日、午前11時2分、この松山町上空で原子爆弾は炸裂した。町の東部を流れるこの下の川は、おびただしい死体で埋まっていた。
水を求めて川辺にたどりつき、そこで力尽きて息絶えた者、また、川まではい寄る途中で倒れ、焼死した人々の遺体が数多く並んでいた。その惨状を目撃した被爆者は次のように書き残している。
「下の川の、なかば崩れた松山橋を渡る時―ああ、その下には川の水も流れることもできないほどの人間の死体が埋まっているではないか。それはあたかも聖書に出ている世の終わりを想わせる。
この世の生き地獄図そのままだ。空は白雲一つない晴れわたった青空というのに、地上はなんという悲惨な光景だ。」(「長崎の証言」1970より抜粋)
現在の護岸には被爆当時の石が用いられている。これは1984年(昭和59)〜1985年(昭和60)にかけての河川改修に伴ない、いまも原爆の熱線の跡を残した被災資料として、現在地に留め残したものである。 |
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