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<山里国民学校の防空ごう>
爆心地から北北東へ約700m、山里小学校の校舎裏(原爆投下当時は山里国民学校の運動場脇)の崖に残る防空ごう。
第二次世界大戦の末期には、頻繁(ひんぱん)になった空襲から命を守るためにあちらこちらにに防空ごうが掘られ、この山里国民学校にも、東側から北側にかけての崖に20個をこえる防空ごうが掘られていた。戦後、東側にあった浅い防空ごうは埋め戻され、現在ではこの北側の防空ごうが残されているだけである。北側の崖に掘られた防空ごうは比較的深く、その中に、理科室の実験器具や学校の重要書類が運び込まれていたため、山里国民学校は爆心地に近かったにもかかわらず、学籍簿や卒業生台帳などの焼失を免れた。
1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、原子爆弾炸裂の瞬間、この北側防空ごうでは教職員の手によって、さらに深くするための作業が行われていたが、一瞬の差で防空ごうに飛び込んだ3人の先生方が無事であったものの、熱線や爆風によってたくさんの方々が爆死したり、負傷したりした。また、負傷した防空ごうに運ばれた方々もその後次々に亡くなられた。
当時は入り口にコンクリート枠などはなかったが、平成13年(2001)年3月、内部・入口は風化や崩壊の危険を防ぐため補修、改装された。その結果、当時の姿がすっかり失われてしまっている。 |
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旧校舎は昭和7年(1932)に建築され、昭和63年(1988)校舎建築に伴い解体された。この校舎は原爆の熱線により内部は焼失したが爆風に耐え、焦土と化したこの山里の丘に孤高を堅持しそびえていた。
爆風に揺るがなかった校舎の姿は山里の人々に生きる勇気と希望とを与える心の支えであった。被爆校舎が学舎となったその後の子らには強い平和希求の精神をも培ってくれた。その校舎のありし日の姿を刻み、子らの健やかな成長と平和を念じて、正門跡のここにこの碑を建立する。
<原爆の惨禍を被った山里国民学校>(爆心地より北に約600m)
昭和20年(1945)8月9日、午前11時2分、突如として上空に閃光ががひらめき、一瞬にして大地は原子爆弾の紅蓮の炎に包まれ、家は倒れ、石はさけ、校庭にいた子供達や先生方は黒こげとなりながら地獄絵図の様を呈した。
当時、今の運動場にあった鉄筋コンクリート3階建の校舎も内部はすべて炎上し、3階の一部は崩壊した。当日の在校者32人のうち馬渡久吉校長以下職員26人、用務員2人が死亡し、生存者はわずか4人であった。児童の被害については在籍総数1,581人のうち、およそ1,300人が死亡したものと推定されている。その後、本校では山里救護隊による治療が続けられたが、死亡者が続出し、そのつど運動場で火葬され、荼毘(だび)の炎は何日も夜空を焦がし続けた。
被爆した校舎は、戦後補修を重ね教舎として使用したが、老朽化が激しいため昭和63年(1988)8月解体のうえ、現位置へ改築したものである。長崎市は、ここで亡くなった幾多の人たちのご冥福をお祈りするとともに、二度とこのような惨禍が地球上に繰り返されることのないように願い、この地に銘板を設置するものである。 |
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