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日本赤十字社は、明治20年(1887)西南戦争が始まった時に敵味方の区別なく負傷者を救護するために設立された博愛社を前身とする。この中央病院は、わが国が明治19年(1886)に万国赤十字条約に加盟した際、皇室から賜った御料地に建てられた大規模病院である。西洋の病院にならった分棟式で、9棟の病棟が中庭を囲んで配置された。
設計監督は、赤坂離宮の設計者であり、日本最初の建築家4人のうちのひとり、片山東熊である。ハーフティンバースタイルを基調とした洋風になっている。
病棟は高床で二重床とし、屋上に換気塔を設け、廊下はガラス張りとなっている。防湿、採光、換気など病院建築として細心の注意が払われている。登録有形文化財。
旧所在地:東京都渋谷区広尾
建設年 |
明治23年(1890) |
解体年 |
昭和48年(1973) |
移築年 |
昭和49年(1974) |
建築面積 |
89.5坪 |
構造 |
木造平屋建て |
寄贈者 |
日本赤十字社 |
(博物館明治村(愛知県犬山市)にて撮影) |
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病棟は特等病室・上等病室・中等病室・下等救助病室の4つのランクに分けられている。この病室は下等救助病棟の5人部屋だが、ここに展示しているものは、各病室で使用されたベッド及び調度品です。(ベッドの種類、調度の種類が病室によって異なっている。) |
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<明治時代の病院の食事>
現在の病院では疾病の種類や病状に応じて、医療の一環として栄養管理が行われている。日本では大正末期までは自炊が中心であったが、戦後、医療法の制定により、病院が給食施設を持つことや、完全給食制度が盛り込まれ、次第に「栄養」と共に「質」についても配慮されるようになった。
明治時代の病院食は「滋用品」として牛肉、卵、牛乳、パン、馬鈴薯(じゃがいも)などが用いられた。病院船においても船内で牛、鶏を飼育し、滋用品として提供していた。 |
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病院はドイツのハイデルブルグ大学病院に手本をとったといわれ、木造平屋建てで、レンガ造りの本館と、木造の手術室、9棟の病棟からなる分棟式病院で、中央には広々とした中庭を設け、相互に渡り廊下で連結されていた。明治村に移築されているのは西三号病棟です。 |
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<佐野常民>
佐野常民「「さのつねたみ 文政5年(1822)〜明治35年(1902)」
佐賀藩士の子に生まれる。安政2年(1855)、長崎の海軍伝習士官となり、日本最初の蒸気船と蒸気車の模型制作に成功。文久3年(1863)蒸気船凌風丸を創製。慶応3年(1867)のパリ万国博覧会、明治6年(1873)のウィーン万国博覧会の2度にわたるヨーロッパ視察の経験から赤十字活動の重要性を認識し、明治10年(1877)博愛社を創設、初代副総長に、博愛社が名称を『日本赤十字社』と改称した際、初代社長となり、亡くなる明治35年(1902)までその地位にあった。その間、元老院議員・大蔵卿・農商務大臣などを歴任し、伯爵を与えられる。その他、龍池会(のちの日本美術協会)の会頭に就任し日本の美術工芸の振興に貢献した。
<橋本綱常>
橋本綱常「はしもとつなつね 弘化2年(1856)〜明治42年(1909)」
福井藩医の子に生まれる。幕末の志士橋本左内の末弟。文久2年(1862)長崎で蘭学を学び、さらに江戸で学ぶ。慶応元年(1865)再度長崎に赴きボードインに師事。明治3年(1870)陸軍に奉職。明治5年(1872)ベルリン医科大学に留学、その後ヨーロッパ各地を遊学し、明治20年(1877)帰国、その後陸軍軍医監、翌年兼東京帝国大学医学部教授、軍医総監、陸軍省医務局長を歴任し、明治19年(1886)初代日本赤十字病院院長に就任し、亡くなるまでその職にあった。この間、宮中顧問官・日本外科学会長などを勤める。子爵。 |